盲導犬の父塩屋賢一とアイメイトの歩み

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日本で初めて盲導犬の訓練に成功

終戦後すぐにシェパード犬を手に入れる

アスターと。1948年に日本シェパード犬協会主催の警察犬訓練試験競技会に優勝した頃

1945年8月、賢一が24歳の時に終戦。人々は飢えと貧しさに喘ぐ生活を送っていた。賢一は日本電子工業というラジオなどを作るメーカーに就職。技師として働くことになった。
同時に、「ああ、戦争は終わったし、好きな犬でも飼いたいなあ」という思いがふつふつと沸き上がっていた。そして、終戦からまだ日も浅い8月のある日、少年時代に憧れたシェパードの子犬の情報を求めて、神田駿河台にあった『帝国軍用犬協会』を訪ねた。そんな時期だから犬を飼っている人は少なかったが、豊島区雑司が谷のある愛犬家宅で折よくシェパードの子犬が生まれたという情報を得た。
紹介されたその家を訪ねると、生後3カ月余のオス、メス1頭ずつの子犬が引き取り手が決まらないまま残っていた。利口な犬が欲しかった賢一は、1週間ほどその愛犬家宅に通い、2頭をじっくり観察してからメスの子犬を300円で譲り受けた。当時の練馬あたりの土地が一坪100円程度だったというから、300円は大金だ。賢一は、犬を飼いたいという夢をかなえるために全財産をはたいたのだった。1945年8月30日のことである。

「塩屋愛犬学校」を設立

愛犬学校時代、依頼主から預かった犬たちと訓練に向かう賢一。軽井沢で

その子犬は『アスター』と名づけられ、寝食を共にする家族となった。賢一は少年時代の夢を実現する形で、アスターにさまざまなことを教えこんだ。そして1948年、『日本シェパード犬協会』主催の警察犬訓練試験競技会に出場。プロの訓練士に混じってただ一人のアマチュアながら、見事チャンピオンになった。さらに1週間後、別の競技会でもメスに与えられる最高の称号である「訓練ジーゲリン」(チャンピオン)に輝いた。
前年には和子夫人と結婚。明るい未来が開けているかのように見えた。だが、その年の春、勤めていた会社が倒産する。再就職先を探すが、結核が完治していなかった賢一に、なかなか仕事は見つからなかった。そこで、チャンピオン犬アスターの子犬が高く売れたこともあり、その資金を元手に犬の訓練を職業にすることを考えた。
競技会で審査委員長を務めていた相馬安雄氏に相談すると、「君は電気の技師では日本一にはなれないが、犬の訓練でなら日本一になれるかもしれない」と強く背中を押され、和子夫人の反対を押し切って訓練士になる決心をする。すぐに公認訓練士の資格を取り、自宅の庭に犬小屋を建てて『塩屋愛犬学校』の看板を掲げた。
始めてみると訓練の依頼は結構あった。多くはお金持ちの日本人やヤミで儲けた新興成金、駐留米軍のアメリカ人からのものだった。評判は口コミでどんどん広がり、収入も会社員時代よりも多くなっていった。この『塩屋愛犬学校』は、東京盲導犬協会(現・アイメイト協会)を設立した1971年頃まで続けることになる。

もっと人の役に立つ仕事をしたい

盲導犬用のハーネスを手にする賢一

塩屋愛犬学校の経営は順調だった。しかし、賢一は次第に疑問を抱き始める。当時、犬の訓練やしつけにお金を出せるような人はごく少数だった。「一部の金持ちの道楽の片棒をかつぐような仕事なのではないか?」。そんな思いに悩まされるようになり、次第にやり甲斐を感じられなくなっていった。
「食べていくためだけでなく、人の役に立つ仕事がしたい」。悩み続けていたある日、日本シェパード犬協会の会報をパラパラとめくっていると、「盲導犬」という文字が目に飛び込んできた。「シェパードは盲導犬としても使える」という記事だった。アスターら身近にいる犬たちが、盲導犬という仕事もできるということが、新鮮な驚きだった。
それからしばらくして、アメリカで初めて盲導犬を使用した人の体験記が出版された。賢一は、この本をむさぼるように読んだ。盲導犬を得て、どんなに世界が広がったか、精神の自由を得られたか。著者の喜びに満ちた筆致に感動した。「よし、これだ!これこそが、俺がやりたい犬との仕事だ!」。賢一は、再び相馬安雄氏を訪ねて盲導犬の訓練を手がけてみたいという思いを伝えた。
相馬氏は、賢一の恩師であり、かつて初めてドイツから盲導犬を輸入した人物の一人でもあった。「是非盲導犬を作って欲しい」。そう即答した相馬氏の心の中には、戦時中に頓挫してしまった自身の夢を、賢一に託したいという気持ちがあったに違いない。日本ではまだ誰もやったことがない盲導犬の訓練。それを、賢一がやることになったのである。

目隠し、手探りでの訓練

決意は固まったものの、国内には盲導犬に関する文献も、ノウハウを教えてくれる人もなかった。賢一は、アメリカなど欧米各国から盲導犬に関する資料を取り寄せて辞書を片手に読みあさった。その結果、盲導犬には<車道と歩道の境や曲がり角ではいったん止まる><「右」「左」などの合図で曲がる><道路上や人間の頭の高さの障害物を避けて通る>などの専門的な能力が必要だと分かった。文献だけではその具体的な訓練法は分からない。とにかく実際にやってみるしかない。アスターと共に手探りで訓練に取り組む決心をした。まず、視覚障害者の世界を身をもって知るために、目隠しをして生活を始めた。

目隠しをして町を歩く塩屋賢一。犬たちと徹底的に実地を積み重ねて盲導犬の訓練法を確立した。

何も見えない状態で外を歩き、盲導犬が何に注意をして行動し、人はどのように誘導すれば良いか、一つひとつ確認していった。そして、それらをアスターに教え込んでいった。ドブに落ちたり、目から火が出るほど思い切り顔をぶつけたこともある。車にひかれそうになってトラックの運転手に怒鳴られたこともあった。

妻・和子と長男・隆男。

妻・和子も賢一を手伝った。和子が目隠しをしてアスターと人や車が行き交う道路を歩いた時には、不安に勝てず途中で目隠しをとってしまうこともあった。賢一は、そんな妻の頭にゲンコツを見舞った。
そして約1年間の試行錯誤の末、アスターの盲導犬としての訓練が終了した。1949年、賢一が28歳の時である。

母・亀代と。訓練の成功の影には家族の支えがあった

 

「訓練士」塩屋賢一の記録 1954 シェパード犬訓練競技会

愛犬学校を始めた賢一のもとには、口コミでさまざまな人が犬の訓練を依頼しにやって来た。そんな中に、「名犬アスター」の評判を聞いて、名古屋から自分の愛犬「ヤール号」を連れてきた来た人がいた。ヤールはオスのシェパードだったが、飼い主はなんとか競技会で優勝させたいと願っていた。他の訓練士に頼んでも見込みがないと考え、賢一を頼ってきたのである。
賢一のもとで、ヤールは順調に力をつけていった。競技会の成績は1年目が11位、2年目が4位、そして3年目にとうとう、オスの日本チャンピオンにあたる「訓練ジーガー」を獲得した。
プロの訓練士の世界は競争が激しく、チャンピオン犬を生んだ犬舎や訓練士は業界でもてはやされる。ヤールの実績によって、塩屋愛犬学校には断り切れないほどの依頼が殺到するようになった。賢一は、こうして一流の訓練士として名声を高めた後、「盲導犬の育成」という次のステップに向かっていくのである。

1954年のシェパード犬訓練競技会に出場した賢一。
この大会で『ヤール』を優勝に導き、訓練士としての名声を不動のものにした
優勝トロフィーを手にする賢一(左端)

 

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