盲導犬の父塩屋賢一とアイメイトの歩み

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国産盲導犬第1号誕生

全盲の大学生 河相洌さん

河相さん(右)と賢一、チャンピイ。賢一のチャンピイの第一印象は「愛嬌はあるが、片方の耳が垂れていて、目の輝きも鋭さに欠けていた」というものだった。

アスターの訓練を完成させた賢一は、さらに理想的な盲導犬を追求するために、アスターの子バルドに初めから盲導犬としての訓練を行った。そしてその訓練は、さらにバルドの子ナナへと引き継がれていった。自身の目隠し体験により、視覚障害者の歩行指導のノウハウも蓄積されていた。あとは、実際に盲導犬を必要とする人を待つばかりであった。
そして1956年が明けたある日、ついに視覚障害者の家族から盲導犬育成の依頼が舞い込んだ。依頼主は、東京・大田区に住む河相達夫さんという外交官。戦時中の厳しい労働と栄養失調が原因で失明してしまった息子の洌(きよし)さんのために、息子がかわいがっているチャンピイというシェパード犬を盲導犬にして欲しいということだった。洌さんは賢一の5歳年下で、当時大学4年生だった。

米軍大佐から譲られた「チャンピイ」

チャンピイは、アメリカ大使館付き海軍武官、ウイリアム・C・ノーベル大佐のもとで生まれたチャンピオン犬の血を引くジャーマンシェパード。将来チャンピオンになれるようにと、チャンピイと名付けられたが、あるパーティーで河相達夫さんと知り合い、息子の洌さんが目が不自由だと知ったノーベル大佐が「盲導犬にしてはどうか」と、まだ子犬だったチャンピイを譲ったのだった。アメリカで盲導犬が活躍しているのを見ていたノーベル大佐だからこそ、できたことであろう。
洌さん自身、子供の頃から犬が大好きだった。さらに海外生活が長かった関係で子供の頃から盲導犬を知っていた。だから、大学生になってから目が見えなくなり、自立を考えた際に、ぜひ挑戦したいと考えたのが盲導犬による自立した歩行だった。それだけに、洌さんはなおさらチャンピイを大切に育てた。厳しくしつけながらも、毎日ブラシをかけ、一緒に眠った。
そして、盲導犬にする訓練をしてくれる人はいないかと、犬に関係のある仕事をしている人に聞いてまわるうちに、賢一の恩人・相馬安雄氏から「ちょうどいい人がいます。その人以外に盲導犬の訓練を出来る人はいないでしょう」と賢一を紹介されたのである。塩屋賢一と河相洌。この2人のパイオニアの出会いが、国産盲導犬の誕生につながるのである。

河相洌さんとチャンピイ

「絶対にうまくいく」

いよいよチャンピイの訓練が始まった。チャンピイは教えたことをよく覚えてくれる一方で、放浪癖と他の犬とよく喧嘩をするという悪い癖があった。賢一は、それに対しては、叱ってやめさせるよりも愛情を注ぐことが大切だと考えた。同じ部屋で生活を共にし、積極的にスキンシップをはかったのだ。その結果、チャンピイはしだいに落ち着いた性格になっていった。
基本的な訓練を終えた後、賢一はチャンピイを騒音や人の往来などに慣れさせるため、毎日一緒に街を歩いた。数ヶ月の後、チャンピイは脇見をせずにまっすぐ歩けるようになった。その後、商店街を想定して空地に障害物を置き、それらを避けて歩いたり、頭上の障害物の前で止まったりする訓練をした。仕事の途中で粗相をしないように、出掛ける前に人の指示で排泄を済ませる「ワン・ツー」も覚えさせた。
賢一は早い段階から手応えを感じていた。「絶対にうまくいく」という自信があった。訓練を始めてから1年3ヶ月、いよいよ河相さんにチャンピイを引き渡す時がきた。1957年夏のことである。

 

時には荒療治も

チャンピイの足を洗う河相さんとそれを見守る賢一。賢一はまず、チャンピイの日常の世話は河相さん自身でしなければならないと説いた

河相冽さんはその時既に大学を卒業し、結婚して滋賀県彦根市の県立彦根盲学校の教師になっていた。チャンピイの訓練が終わると、賢一は、夏休みを利用して東京・大森の実家に戻っていた河相さんのもとに通い、歩行指導にあたった。犬の訓練が終わってもそれはまだ道半ば。共に歩く人が盲導犬の扱い方を身につけなければ、実際に視覚障害者の目になることはできない。
賢一はまず、信頼関係を築くためにも、チャンピイの日常の世話は、河相さん自身で行なわなければいけないと説いた。そして、実際にハーネスを持ってチャンピイと歩いてもらった。初めのうち、河相さんとチャンピイはなかなか息が合わなかった。チャンピイの歩くスピードが早すぎて、河相さんがへっぴり腰になってしまうのである。「ま、そのうち合いますよ」。賢一は焦らなかった。
河相さんの実家がある大森は、車の往来がとても多かった。もし事故にでも遭ったら取り返しがつかない。そこで、河相さんが横断歩道などで「行け」と指示を出しても、車が来たら後戻りして指示に従わない、という訓練が必要になった。賢一が車を運転して、道路を渡ろうとする河相さんとチャンピイの前にわざと突っ込んでくる、という荒療治も行った。車が来たらチャンピイは後ずさりする。河相さんはチャンピイの動きについて後退する。その練習を繰り返した。大森駅の近くにある長い石段の上り下りや、商店街で障害物を避ける練習も行なった。歩行指導はこうして、3週間近くにわたって毎日行なわれた。

日本初の盲導犬誕生の瞬間

河相さんが歩行指導を受けられる夏休みも残り少なくなったある日、賢一が愛犬学校の用事で来られない日があった。河相さんは賢一から、チャンピイと二人だけで歩く許可をもらい、遊びに来た妹を駅まで送って行き、家まで一人で帰ってきた。次の日、それを聞いた賢一は「では、今日は今まで行ったことのない所へ行ってきてもらいましょう。昨晩よりはちょっと手強いかもしれませんよ」と、1.5kmほど離れた郵便局で切手を買ってくるように言った。
河相さんは「チャンと一緒なら大丈夫」と、あえて大きな通りを信号のないところで渡る難しいコースを選んだ。行きはチャンピイを信じきれず、大通りを苦労して渡ったが、それをきっかけに自信と信頼が芽生え、道順通りに郵便局へ行って切手を購入した。そして、帰り道はチャンピイの誘導に身を委ねて気持ちに余裕を持ちながら、難なく賢一のもとに帰ってきたのである。「やりましたね、ついに。本当におめでとう。ごくろうさんでした」。1957年8月、日本で初めての盲導犬が誕生した瞬間だった。

「さようなら、チャンピイ」

彦根に帰った河相さんは盲学校の教師としてチャンピイと人生を歩み始めた。チャンピイはいつも河相さんと一緒だった。
チャンピイと共に彦根に帰った河相さんは、町を精力的に歩き、頭の中に生活のための地図を描いていった。仕事は盲学校の教師だったが、もちろん学校へ行くのもチャンピイと一緒だ。チャンピイは授業中はいつも教卓の脇で静かに伏せていた。生徒たちもチャンピイを大歓迎。教室が前にも増して明るい雰囲気に包まれた。河相さんは、日々の暮らしの中で感じたことや問題点、質問をまとめて「チャンピイ通信」と題して賢一に書き送った。賢一はそれを受けて、時には彦根まで出向いて様子を見に行った。
賢一が行くことを知らせずに、こっそり見に行った時のこと。チャンピイは木の陰に隠れていた賢一を、横目でチラッと見ただけで通り過ぎて行った。河相さんは賢一に全く気付かない。それを見て賢一は、チャンピイの見事な仕事ぶりに涙した。「さようなら、チャンピイ。河相さんを頼んだぞ」。チャンピイは賢一の手を離れ、河相さんの揺るぎないパートナーとして独り立ちしたのだった。
チャンピイの活躍は、新聞やテレビで度々紹介された。そして長年にわたって河相さんの目となり、1967年、12歳で老衰でこの世を去った。チャンピイの後も、ローザ、セリッサ、ロイドという3代のアイメイトが河相さんの良きパートナーとなった。河相さんは現在、教員とアイメイト歩行を引退し、最後の赴任先であった静岡県浜松市で暮らしている。

「盲導犬」から「アイメイト」へ

チャンピイに続け

チャンピイ誕生以降、賢一のもとから次々と盲導犬使用者のペアが巣立っていった。使用者が増えるにしたがい、盲導犬の存在が社会に根付いていく。特に初期の使用者は視覚障害者の自立の礎となった。

◆第2号・松井新二郎さんとユッター(1958年3月卒業)
松井さんは日中戦争の戦傷盲人で、当時は盲人福祉施設の職員をしていた。塩屋賢一は松井さんについてこう述べている。「松井さんは『盲導犬研究会』の設立にも努力された。私が盲導犬の仕事に引き込まれたのも、松井さんに負うところが大きい。『盲人にとって歩くことがいかに大事か』を強調され、歩行の自由を得れば盲人の問題は50%解決できると言っていた」

松井新二郎さんとユッター

 

◆第3号・大内三良さんとアダ (1959年3月卒業)
大内さんは子どもの時の花火遊びで失明した。塩屋賢一による大内さん評。「大内さんは、たいへん元気のいい人で、二人乗り自転車で“箱根越え”に挑戦した人である」

大内三良さんとアダ

 

◆第6号・戸井美智子さんとオディ(1964年11月卒業)
戸井さんは、神戸で英語の先生をしていた女性使用者第1号である。塩屋賢一による戸井さんの思い出。「戸井さんは、自立心の強い人で、アイメイトと単身アメリカへ旅行もした。この自立心はおそらく、両親の教育にあずかるところ大であったと思う。お宅にうかがった時のことだった。二階へ通され果物が出された。その時、果物ナイフがないことに気づいたお父さんが、『美智子、下へ行って果物ナイフを持っておいで』と言ったのには驚いた。普通なら、目の見えない人間に刃物を持ってこさせることはしないものだが、お父さんはごく自然に彼女に頼んだ。目が見えないからといって特別扱いをせず、強く生きることを教えているのだと感心した」

戸井美智子さんとオディ

闘病生活の間も盲導犬育成を続行

 チャンピイに続く盲導犬を着実に増やすため、賢一は1958年、『塩屋愛犬学校』と並行して『日本盲導犬学校』をスタートさせた。しかし、翌年、戦時中に患った結核が再発。盲腸も併発して4回にわたって手術をした。
それでも賢一の情熱は衰えず、闘病生活の間も育成事業は継続した。やがて実績を認める人たちが増え、出資者を得て1967年に『日本盲導犬協会』を設立。スタッフも加わって組織的な育成が始まった。1969年には東京都が盲導犬育成事業を開始。日本盲導犬協会がそれを受託した。ついに自治体が公的に資金を出し、盲導犬を育てる時代がやってきたのである。

自ら設立した「日本盲導犬協会」と訣別

しかし、その頃から賢一と協会の理事に就任した出資者との間で考え方の違いが表面化した。賢一の言葉を借りれば、「彼らは『盲人のためにしてやっているんだ』という姿勢を強く押し出してきて、私の『障害者と一体でやろう。盲人の自立をお手伝いするだけだ』という理念と対立し、溝は深まるばかりだった」ということであった。振り返れば、「盲導犬ビジネス」として協会事業を拡大したい出資者側と、あくまで「視覚障害者福祉」として事業を継続したい賢一の対立であった。さらに、出資金は約束通り支払われることはなかった。賢一はぎりぎりまで溝を埋める努力をしたが、最終的には賢一の方から日本盲導犬協会と訣別する形となった。日本盲導犬協会は、賢一が切り開いた道から断絶する形で、今も事業を継続している。
訣別後、さらに若い指導員たちが仕事をボイコットして出ていってしまうという事件が発生。賢一は「一夜にして白髪になる」という表現がオーバーではないほどのショックを受け、長男・隆男が交通事故で一時意識不明になる不幸も重なり、いったんは盲導犬から手を引くことを考える。しかし、その隆男から「この仕事がライフワークだと言っていたのに、こんなことでやめてしまうのか。石にかじりついてでもやり通すのが男じゃないか」と叱咤激励されたことで立ち直り、1971年に新たに『(財)東京盲導犬協会』を設立。その後、東京都に続いて多くの自治体が盲導犬育成事業に乗り出し、その大半を賢一の東京盲導犬協会が受託した。

※盲導犬に代わる「アイメイト」の呼称は東京盲導犬協会時代からのもの。1989年にその名を冠した『アイメイト協会』へと名称を変更した。

盲導犬の活躍の場が拡大

東京盲導犬協会が発足した1970年代当時は、社会の受け入れ体制はまだまだ視覚障害者の社会進出に沿ったものではなかった。たとえば、国鉄(現在のJR)に盲導犬を伴って乗車する場合には、乗車1週間前の申請が必要だった。これでは使用者の外出が制限されてしまううえ、1970年には既に賢一に続いて複数の盲導犬育成団体が設立され始めていたため、申請手続きにも混乱が生じ始めていた。これらの不合理を正するため、東京盲導犬協会の呼びかけで1972年に『全国盲導犬協会連合会』が発足。これにより、申請の窓口が一本化された。

1984年、奥田敬和郵政大臣(当時)を訪ね、電車・バス乗車時の口輪装着義務の撤廃などを訴えた石川県のアイメイト使用者・佐藤憲さん(左)とデューテヤ。使用者自らも積極的に社会を動かした

そして1977年、東京盲導犬協会顧問の参議院議員が、アイメイト使用者が傍聴する中、国鉄乗車の問題など社会の盲導犬使用に関わる様々な社会問題について初めて国会で質問。これを機に、同年、国鉄に申請なしで乗れる自由乗車が、続いて1978年にはバスの自由乗車が実現した。1980年には、航空会社や私鉄もこれにならう。後には、それまで飛行機やバスなどで義務化されていた盲導犬の口輪装着義務も撤廃された。また、レストランや喫茶店、旅館に対しても入店拒否などをしないよう、対応協力の指導が国からなされた(1981年)

国鉄(当時)吉祥寺駅で電車を待つアイメイト使用者(1973年)。この当時はまだ乗車1週間前に申請が必要だった

これらは、いずれも賢一が「障害者と一体となって自立のお手伝いをする」という信念を貫き、周囲に呼びかけ続けた成果だった。アイメイト使用者も積極的に自分たちのために陳情や署名集めに動いた。賢一のもとでその哲学を学んだ使用者、そして理念に賛同した多くの人たちの力が、社会を動かしたのである。

1973年のアイメイト協会同窓会(使用者の会)のピクニックの様子。この時期、アイメイトはジャーマン・シェパードからラブラドール・レトリーバーへの切り替わりが進んでいた。通行人からシェパードは「怖い」という声が出ていたのが、その理由の一つだった
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