アイメイト60年史・証言 ① 河相 洌さん(国産盲導犬第1号『チャンピイ』の使用者)

河相 洌さんは、最初の国産盲導犬使用者です。1957年に国産盲導犬第1号の『チャンピイ』と共に歩み始め、長年盲学校の教師として、そして盲導犬・アイメイトの普及のために活躍されました。2008年に4頭目のアイメイト『ロイド』をリタイアさせ、自らもアイメイト使用に終止符を打ちました。現在も、長年盲学校教師を務めた静岡県浜松市でご健在です。
 
チャンピイを盲導犬として育てた塩屋賢一亡き今、1957年の歴史的な出来事の当事者は河相さんだけとなりました。その河相さんに、国産盲導犬誕生の原点となった若き日の真実と、現代を生きる視覚障害者へのメッセージを語っていただきました。

自分の頭で考えて道を切り開く

旅順時代に親戚らと。前列右から3人目の帽子を被って立っている少年が洌さん。洌さんの右の2人がご両親。左の軍服姿は叔父、その左の着物姿の女性の膝の上に座る少女が後の河相夫人

河相さんは1927年、外交官だった父の赴任先のカナダ・バンクーバーで生まれた。ゆりかごに揺られて太平洋を渡り、東京に戻った後、満州事変直後の旅順と上海で子供時代を過ごす。終戦直後に18歳で視力が急激に悪化し、20歳で全盲になった。その当時は慶應義塾大学の学生だったが、治療に専念するため一旦は大学を中退することを余儀なくされた。

医者から見えなくなるということを知らされた時、これで自分の人生がおしまいだなんてことは全然思いませんでした。「どこかに出口はある」と僕は考えた。その出口は具体的には何かというと、学校にもういっぺん戻ることでした。落ち込む暇なんてなかったんですよ。

当時は盲人が大学で学ぶのは非常識だとする考えが主流だったため、なかなか願いは受け入れられなかった。それでも河相さんは粘り強く交渉し、理解を示した教授らの後押しもあって、復学を勝ち取ることができた。

慶應に入ったこともあって、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」という独立自尊の精神は立派だと思っていました。出身中学(府立五中=現在の都立小石川高校)でも、「自分で学んで自分で習え」という開拓精神が伝統だった。そういう生き方がいつの間にか僕の中に植えつけられていたんですね。だから、盲人が大学で学ぶという、当時は考えられなかったことにもチャレンジできたんです。目が見えなくなったのは人生の一つの大きなつまづきですけれど、自分の頭で考えて道を切り開いていく決心さえあれば、それは絶望状態でもなんでもないのです。

前向きに生きるためにチャンピイに賭けた

若き日の河相さんとチャンピイ。東京・大森の実家にて

しかし、復学して社会に出るにあたって、歩行の壁が立ちはだかった。

自立して生きていくという決心は失明した早い段階から固まっていました。そのために解決しなければいけないことは山ほどありましたが、なんと言っても歩行は最大の問題です。じゃあどうやって歩くかと考えた時に、小学校6年生の時に新聞で見た盲導犬のことを思い出した。「ああ、あの盲導犬だ。あいつに限る」とひらめいたわけです(注:1939年に相馬安雄氏ら4人の実業家が戦傷軍人のためにドイツから盲導犬を輸入した。そのことは当時の新聞で大きく報道された)

僕はもともと犬が好きでね。生まれた時から犬と一緒だったんです。生まれたカナダや旅順でも身近に犬がいて、東京に帰ってきた時にも飼っていた。グレートデーンとかでっかいやつです。戦争が進むと飼えなくなりましたが。

ともかく、なんとか盲導犬を手に入れようと奔走したのですが、「どこにもそんなのいないよ。アメリカにでも行ってこい」と言われる始末。あきらめかけた時に、父の知人の米軍大佐が盲導犬にしたらどうだと子犬のチャンピイを譲ってくれた。これは一つの賭けだったんですよ。だってモノになるかどうか分からないでしょう。知識も見通しもない。それでも、当時の若い自分にはチャンピイに賭けてみようという冒険心があったんですね。

河相さんとチャンピイ、塩屋賢一(右端)、河相さんの父・達夫氏(左から2人目)、塩屋賢一の父(左端)

 その後河相さんは、チャンピイを盲導犬にしてくれる訓練士を探し求め、塩屋賢一にたどり着く。この出会いがなければ、国産盲導犬が生まれるのはもっと後のことになったに違いない。

不思議なんですよ。チャンピイを間に挟んで塩屋賢一と河相洌が揃ったところがね。一つの運命的なご縁があって始まったことだと僕は解釈しています。

塩屋さんの人柄は、要するに職人ですね。職人だからいわゆる一匹狼なんですよ。だから敵も多かったけれど味方も多い。「敵が1000人いたって味方も1000人いるんだ。だから弱気になる必要はない」という、楽天的なところが彼の根本にありました。同時に曲がったことはしたくないという一徹な人。だから、犬の訓練や歩行指導にしても徹底的にやる。職人根性と楽天的な性格とが一つになって塩屋賢一という人ができていた。それが塩屋さんの哲学ではないでしょうか。

塩屋賢一のもとで猛特訓を受けた河相さんは、自分の足で人生を切り開く手段を得た。

マスコミなどでよく勘違いされることなんですが、視力を失って絶望して引きこもっていた私が、チャンピイを得たおかげで立ち直ったと言わんばかりのストーリー設定で「国産盲導犬第1号」が物語られることがあります。それは全然違う。私はチャンピイと出会う前から、独立してより自由に歩く手段としてどうしても盲導犬を持ちたいと前向きに動いていた。その結果、実際にチャンピイと歩くことができるようになると、これは素晴らしいから日本でもどんどん盲導犬を育てていくべきだと思った。自分一人の問題ではなくなったんです。それで取材も多く受けたし、チャンピイもおおいにPRに活躍したわけです。

 見えないのは神の栄光の表れ

 

視力を失った瞬間から常に先駆者として歩んできた河相さん。今、自分が見えなくなったのは運命だったと振り返る。

聖書のヨハネの福音書9章に、キリストのもとに弟子が一人の盲人を連れてきて「この人間が見えなくなったのは誰の罪なんだ。親の罪か本人の罪か」と聞くところがある。キリストは「親の罪でも本人の罪でもない。神の栄光がこの人間に表れたためだ」と答える。

これはね、ちょっと解釈しにくいんですよ。僕も最初に読んだ時は「神様の栄光なら何も見えなくしなくたっていいじゃないか」と思った。だけど、何十年も盲人として生きてきた今は、体験的に言って僕が見えなくなったのにはやっぱり特別な意味があったのだと思うようになりました。「お前は盲人として生きろ」というふうにね、神様が言ったのだと。塩屋さんとの運命的な出会いとか、具体的な裏付けが色々あっての結論なんですけれどね。

そういう人生観というのかな、人間観を障害者は持たなきゃいかんと思います。自分が障害を背負ったということには特別な意味がある。その中で自分が力強く生きていくことが、社会全体の人々にどういう影響を与えているか。そういうふうに意識してほしい。

今は社会環境も随分改善されて障害者も生きやすくなっていますが、善意の皮をかぶった根本的な差別意識も根強く残っていると感じます。それに負けて弱くなっちゃって、例えば「〇〇は差別語だ」などと末梢的なことにこだわって目くじら立てるような狭い根性では、盲人が普通の人間と肩を並べることはできないと思う。それが僕の基本的な考え方。だから、他の視覚障害者にもそれを望みます。

障害を背負ったことには特別な意味がある 河相 洌

 

アイメイト55周年記念誌『視界を拓くパイオニア』(2012年発行)より