視覚障害者の視界を拓いたパイオニア精神
1970年代から使っている「盲導犬」に代わる「アイメイト」の呼び名には、塩屋賢一のポリシーが込められています。
「盲導犬」という言葉から連想されるように「利口な犬が盲人を連れて歩いている」のではない。視覚障害者自身の積極的に社会に参加していくという意思と、お互いの信頼関係があって初めて犬が人の目の役割をしてくれる」
「アイは I 私」「アイは EYE 目」「アイは 愛 LOVE」。
アイメイトは「盲導犬」に代わる、対等なパートナーを表す呼称です。
塩屋賢一は生涯、「自分は視覚障害者の自立のお手伝いをするだけだ」という志を貫き通しました。
そして、多くの人たちがアイメイトを持ったことで勇気づけられ、それぞれの形で積極的に社会参加しています。
焼け野原が広がる終戦の年、塩屋賢一は早くも未来を見据え、前人未到の「盲導犬の父」としての道を歩み始めています。困難な時代にこそ、新しいことに挑戦するパイオニア精神が求められます。塩屋賢一が切り開いた道は、今の世代の私たちが広げ、歩み続けていく道でもあるのです。
犬の訓練士に憧れた少年時代
子供の頃から大の犬好き
塩屋賢一は1921年12月1日、長崎県・五島列島北部の小値賀(おぢか)島で生まれた。1927年、6歳の時に一家は函館に近い北海道上磯町(現・北斗市)へ移住する。両親と賢一、2人の弟との5人家族だった。
賢一は子供の頃から大の犬好きで、狩猟が趣味だった父・兵一が猟犬として飼っていたポインターのチビと兄弟のように仲が良かった。母・亀代が夕飯になっても帰ってこない賢一を探すと、犬小屋でチビを枕に寝ていることがよくあった。父がチビをひどく叱ったときに「ごめんなさい、ごめんなさい」と犬に代わって泣いて謝ったこともある。
軍用犬の訓練を真似る
1933年、一家は賢一が8歳の時に上京し、赤羽に住むようになった。家の近くには軍用犬養成所があった。賢一は学校から帰ると肩掛けカバンを放り出し、一目散に養成所へ。毎日のように軍用シェパード犬の訓練を金網越しに見物した。
そして、訓練所から家に戻ると、その頃飼っていた雑種のケイスケに、今見てきたばかりの訓練と同じ方法で色々なことを教えた。ケイスケがどんどん覚えてくれるのが何か神秘的で、言葉の通じない相手に気持ちが伝わる楽しさ、素晴らしさを知った。(大人になったら、シェパードを飼うぞ。そしていろいろなことを教えるんだ)。少年の夢は大きく膨らんでいった。
その後、東京高等工芸専門学校(現・東京工業大学)電気通信科に進学。今で言う理系の青年だった。後に「情」や「勘」だけに頼らず、論理的な思考で訓練法や歩行指導の理論を積み上げていったことと、こうした素養は決して無関係ではないだろう。
「兵役免除にならなければ、海の藻屑になっていた」
1944年春、賢一は東京高等工芸専門学校(現・東京工業大学)を卒業するとすぐに徴兵され、佐世保の海兵団に入団。その後、館山の海軍砲術学校に移った。
館山で兵役中のある日、口からひどく血を吐いて倒れ、すぐに病院行きとなる。結核であった。病気療養が必要な身では兵役は勤まらないということで、その年の11月に兵役免除となった。退院後、東京に戻ったが、帰ってすぐに空襲に遭った。佐世保でも館山の病院にいたときも空襲はあったが、大したことはなく、「これじゃ、兵役免除になったほうが命が危ないなあ」と漏らしたこともあったという。また、「兵役時代に健康な体であったら、そのまま海の藻屑となっていたであろう」とも戦後に語っている。
戦前・戦中の国内盲導犬事情
1938年、アメリカからやってきたジョン・フォーブス・ゴルドン(ゴードン)という青年と彼の盲導犬オルティが横浜港に降り立った。これが、日本人と盲導犬の最初の出会いである。
ゴルドン青年は、当時ハーバード大学の学生で、アメリカの盲導犬育成団体『The Seeing Eye,Inc.』で歩行指導を受けた後、世界一周旅行の道すがら日本に立ち寄り、2週間滞在した。ゴルドン青年とオルティの姿は驚きをもって日本のマスメディアで伝えられた。ゴルドン青年は、東京第一陸軍病院で陸軍と中央盲人福祉協会の関係者70人の前で講演を行い、盲導犬を持つことがいかに自信につながるか力説したという。
当時の日本では、日中戦争が拡大する中、戦盲軍人が急速に増えていたという背景もあり、これを機に「日本でも盲導犬育成を」という機運が高まった。特に関心を示したのが、「日本シェパード犬協会」である。同協会役員であった中村屋2代目社長・相馬安雄氏ら4人の実業家が、1939年に訓練済みの盲導犬(シェパードのリタ、アスター、ボドー、ルティ)を1頭ずつドイツから輸入して陸軍に献納。ドイツ式の訓練法にならい、日本シェパード犬協会の蟻川定俊氏がドイツ語の命令語を日本語で教え直した後、戦盲軍人が4頭を使用した。
しかし、当時は盲導犬が社会に受け入れられていたとは到底言いがたい状況であった。パートナーとして成功した例も伝わっているが、食糧事情の悪化などから4頭は戦時中に死亡。日本の盲導犬の短い歴史はそこで断絶したまま終戦を迎えた。