河相洌(かわい・きよし)さんは、最初の国産盲導犬使用者です。1957年に国産盲導犬第1号「チャンピイ」と共に歩み始め、長年盲学校の教師として活躍。2008年まで4頭のアイメイトと歩みました。95歳を迎える今年6月、塩屋隆男・アイメイト協会代表理事が河相さんを訪ね、65年前の思い出や現在のアイメイト事業への思いを語っていただきました。

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チャンピイを巡る縁は「天からの恵み」

塩屋代表理事 大変お元気そうで何よりです。今回は、改めて河相さんがチャンピイと活躍した頃のことや、その中で印象に残ったことをお聞かせください。また、若い世代へのアドバイスなどもいただければと思います。

河相洌さん はい。僕がなぜ当時まだほとんど日本で知られていなかった盲導犬を知っていたかというと、小学校6年生の時、昭和14年にドイツから4頭盲導犬が来たでしょう?それが、盲人がシェパードと歩いている写真付きで新聞に載ったんですよね。それを見て、「犬というのはこんなに素晴らしい能力を持っているんだ」と思いました。それからずっと、盲導犬のことが記憶にあったの。そして、戦後、大学生の時に視覚障害者になって、一人で歩けるようにしたい、そのために盲導犬をと考えてね。それで、あちこちに聞いたけれど、「そんなものはいません」と。そうしているうちに、アメリカ大使館の海軍武官だったノーベル大佐がシェパード犬のチャンピイを紹介してくれて、是非とも盲導犬にしたいと、もらっちゃったんです。

塩屋 河相さんのお父上は外務次官でしたよね?

河相 そうです。僕が戦争の影響で目が悪くなったことを、ノーベルさんは父を通して聞いたわけです。あの方は戦争中に駆逐艦の艦長をしていて、「日本の船も沈めた。あなたの息子が戦争に関わって目が悪くなったのなら、私にも責任の一端がある。だから盲導犬を日本で作ってくれ」と言って、一番賢いチャンピイを下さったと、こういうことなんです。

塩屋 ノーベル大佐はそういう捉え方をしていたのですね。その後、父(※アイメイト協会創設者・塩屋賢一)と出会ったわけですね。

河相 シェパード犬協会の相馬安雄さんという方が、「この人ならきっと盲導犬にしてくれるよ」と紹介してくださったのが賢一さん。初めて僕のところへみえた時に、賢一さんはチャンピイを一目見て、「こりゃ、たいした犬じゃない。目に光が無いからね」と言ったんですよ。でも、お互いの思いは同じだったから、「まあとにかくやってみましょう」ということになって始まったの。

塩屋 目に光が無いなんて、見る目の無いことを申し上げているようで(笑)。

河相 ご縁というやつは不思議なものでね。ノーベルさんがくれなかったら、相馬さんが塩屋さんと僕を結び付けてくれなかったら、チャンピイに能力が無かったら、国産盲導犬第1号は成立していない。これは人間が計算してもできないことで、天からの恵みだろうと思います。

国産盲導犬第1号誕生の瞬間

河相 1956年に僕は滋賀県彦根市の盲学校へ赴任して、チャンピイは塩屋愛犬学校(※当時賢一が運営していた家庭犬の訓練所)へ入った。やがて塩屋さんから手紙が来て、「チャンピイはなかなか理解力が良いからいける。期待して待ってほしい」と。そして1957年の春に「チャンピイの訓練が完成したから、今度は河相さんとの歩行訓練をやりましょう」と言われました。

塩屋 そして1957年8月を迎えるわけですね。

河相 その年の夏休みに僕の実家があった東京の大森に帰って、歩行訓練を始めた。塩屋さんは朝8時に必ず車で練馬から来られてね。訓練は周辺で午前、午後とやりました。最初は塩屋さんが後ろからついて来て監督してくださった。だからチャンピイもいつも塩屋さんを気にしているし、こちらはついてもらっているから安心と、まだ半人前なんですよ。そして、2週間目くらいでした。「今日はあなた一人で池上の郵便局の本局へ行って帰って来てくれ」と。池上の郵便局というのは僕の家から徒歩20分くらいですけれど、人に何度も道を聞きながら行きました。郵便局に入ったら、チャンピイはすぐにカウンターのところへ行ってくれました。そこで僕は1円切手を20枚買って、逆の道を帰った。家に着いたら、「これ買って来ましたよ!」って1円切手を振ってさ。そうしたら、家で待っていた塩屋さんが飛んで出て来て、そこで初めて日本に盲導犬が誕生した。お互いに手を取り合って喜んだことを思い出しますね。感動的でした。

塩屋 父もその時はすごく嬉しかったとよく言っていました。

河相 それから今度は、僕が育った家の方へ行ってやりましょうということで、麹町の方へ行きましてね、あの辺りは狭い路地まで知っていますから、「今日は塩屋さん、あなたを案内する。黙って付いて来たらいい」と、ずーっと回ってね。ここがどうで、あそこがどうだと教えてあげて。そんなことを3週間みっちりやったんだ。まあ、よくお互いに我慢をし合ってできたもんだと、今でも思いますね。

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彦根での活躍

河相 夏休みが終わると、彦根へ帰らなきゃならない。すると塩屋さんは「私も彦根へ行く。彦根でもう3日間歩きましょう」と。それで一緒の汽車に乗って帰りました。ところがチャンピイは箱詰め。

塩屋 貨物の扱いですね。

河相 彦根の駅で降りるとチャンピイが箱から出て来て、バケツの水を飲んだの。暑い時でしたから、それはもう、とっても喜んで飛びついてくれてね。

塩屋 彦根では盲学校の先生をしてらしたのですよね。

河相 そう、最初にチャンピイを連れていった日に校長に「これが盲導犬です。一緒に毎日来てもよろしいですか?」と聞いたら、「ああ、いいよ。あなたが来たいんなら来たらいい」と。そういう校長だったの。これがまた幸せだったんです。

塩屋 それはいいですね。校長先生にダメだと言われていたら、また全然違っていましたよね。

河相 いい人間関係が非常にうまく回転して、チャンピイは彦根で仕事ができたんです。学校ではふだんは職員室の机の下にいました。時々外へも出してやったのですが、また親切な同僚がいましてね。彼がわざわざ立派な小屋を作ってくれたの。傘屋根の小屋でした。外の日当たりの良いところへ置くと、チャンピイはそこでゴロンと寝る。教室では、教卓の横でじっと伏せてみんなの様子を見ていました。

塩屋 ええ、教卓の写真はよく目にします。

河相 そんなことで4年間彦根で暮らしたんですけれど、彦根というところは冬はひどく寒いんです。年に1回は大雪があるんですね。その大雪の日に、妻に「今日はチャンピイと行くのは無理じゃないか」と言われたのですが、僕は「こういう時にこそチャンピイは能力を発揮するはずだ」と、大雪の中をチャンピイと学校へ行きました。彼は非常に巧みに雪の少ない所少ない所をずーっと誘導してくれて、無事に学校にたどり着きました。

「さすがはチャンピイだ。これが盲導犬なんだ」

河相 それから、忘れられないのはクマという犬に噛みつかれたこと。クマというのは町の小料理屋の飼い犬でしてね。秋田のような、まあ雑種ですね。身体が大きい雄だから、いつもチャンピイに敵意を持っていたんだよね。ある朝、僕らがちょうどT字路で停まったところで、右手側からクマが自転車に引かれてやって来た。それでチャンピイとクマがこう、

塩屋 バッタリ出くわしちゃったんですね。

河相 そうしたらクマが猛然と怒って、自転車を引き倒して、首輪も外れちゃった。それからチャンピイの左の腿にガブリと噛みついた。僕はその時は何が襲ってきたのかは分からなかったんだけど、チャンピイは身をよじって逆襲に出ようとした。それをやられたら大変だから、僕は「いけない!」と言ったの。そうしたら、チャンピイは堪えたんです。そのうちに町の人がやって来て、チャンピイの腿に噛み付いて離れないクマの口をこじ開けて外しました。その時にチャンピイがものすごい声で吠えた。あれは咆哮と言うんですかね。唸り声というか、吠え声というか。残念無念という、その悲しさ、悔しさがよくよく僕にも伝わって来ました。あの時は、本当は闘いたかったのでしょう。だけど、それをやってはいけないんだと言われて、踏ん張ったわけですよね。噛まれた脚は地面に着けないくらい痛かったのに、3本足で僕を家へ誘導してくれました。家に着いたら、妻がペニシリン軟膏を塗って治療してくれました。

塩屋 化膿止めですね。

河相 4〜5日は外へ出られなかったけれど、なんとか治っていって、また歩くようになりました。あの事だけは、永遠に忘れられない。「さすがはチャンピイだ。これが盲導犬なんだ」と。

塩屋 父もよく口にしていました。もともとのチャンピイは放浪癖があって喧嘩っ早かったと。それが耐えたんですからね。

河相 ええ、そうです。それから、残念だったことは、チャンピイの時代には盲導犬といえども電車にもバスにも乗れなかった。あれで乗れていたら・・・

塩屋 もっと活躍していましたね。

河相 チャンピイという犬は、賢いだけじゃなくて、非常に優しい性格でした。ちょうど娘がチャンピイがいた時に生まれましてね。ベビーベッドで大きな声で泣いてるのを、チャンピイがそばに行って座って、どうしてそんなに泣くんだ?って、じーっと見守るんですよね。娘がハイハイするようになると、今度はそばに座っているチャンピイにいたずらをするのね。それでも嫌な顔一つせずにされるがままになって遊んでくれたの。塩屋さんも、チャンピイは愛犬学校にいた時も子犬を遊ばせるのがとても上手だったと言っていました。

塩屋 それは今初めて伺いました。そういういろいろなことが良い方向に向いて、その中で視力に障害のある河相さんとチャンピイが颯爽と街中を歩いている姿を見せた。そこに、大きな説得力がありましたよね。

河相 そうです。

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大切なのは人の心構え

塩屋 ところで、アイメイト協会では今、新しい歩行指導員の養成に力を入れています。今の若い人たちは、失敗や挑戦を恐れていると聞きますが、確かに努力するとか自分で考えるとか、そういうことは苦手な人が多いように感じます。

河相 いや、よく分かります。近頃の若い人はね、言われたことはしっかりやるんですよ。だけど自分で考える、自分から積極的に手を出してやってみる、こういうことになると消極的なの。

塩屋 そうですね。しかし、言われたことだけしていると試行錯誤しながら学ぶことができません。

河相 それは本当(の努力)ではないですね。

塩屋 ええ。でも、今年の4月から新たに1名が歩行指導員になりまして、まっすぐ育っていけばいいなと願っています。他の若い研修生たちも、視覚障害者の方を指導させて頂くことも始めています。みんなが気が付いて、自分でどんどん努力して、工夫してくれれば良いと思っています。

河相 このごろの使用者はどうですか?昔と比べて根性がありますか?

塩屋 あのー、無いです(笑)。昔と比べて環境が良くなった一方で、自分がやらなきゃ、と意識する機会が減っているようです。1頭目の歩行指導を終えて卒業して、その後が一番大変じゃないですか。犬が自分の目になるまで、身体の一部になるまでの大変な時期を努力して乗り越えようという意思が弱かったり、近道や抜け道があるんじゃないかという発想があるんですね。犬を使うには近道、抜け道というのはありませんよね。

河相 うん、うん。

塩屋 犬に真心を込めて接して、それで上手にやったら嬉しいという気持ちになって褒めてやる。そうじゃなかったら、危ないじゃないか、ダメじゃないかと叱る。それを繰り返すことによって初めて一体になれると思うのですが、地道にやることが大事だという感覚がなかなかしっくりこないようです。

河相 やっぱり時代が変わって来てるんですね。

塩屋 でも、そういう時代になったと嘆いていても仕方がないので、今でも正しい姿勢で歩きましょうとか、ハーネス持つ時に脇を開けちゃだめですよとか、基礎をうるさく言い続けています。このごろは叱ることができない人が多いんですよ。犬が可哀相だと。そりゃあ、いじめたら可哀相だけど、そうじゃないんだと。

河相 そう、そう。

塩屋 コミュニケーションを取るために、犬に心を伝えるために、良いことは褒め、悪いことは叱るわけですから。

河相 そして、使用者が「褒める」と「叱る」をしっかり区別して心を込めて接しなかったら、犬は能力を発揮しません。やはり人間が大事です。

塩屋 おっしゃる通りです。人間の心構えが大事なのだという、今の河相さんのお言葉を是非これからもみんなに伝えていきたいです。

国産盲導犬第1号ペア 河相洌さんとチャンピイの記録 〜半世紀前の秘蔵アルバムから〜