「待つ」ことが嫌だった
戸井さんは、生後16カ月ではしかが原因で視力を失った。父は、大阪・心斎橋で紳士用品店を営んでいた。
昔は、はしかの高熱が原因で見えなくなる方がいっぱいたんです。幼い頃のことですから、私は見えてた時分のことを全然知らないんです。でも、明るさとぼんやりとした色くらいはしばらく見えていたんですよ。昔は雨戸の隙間からお日様が差したりしてましたでしょ。そうしたら「ああ、今日はお天気だ」って。色も今でもだいたいイメージはありますけどね。それが、大人になってアメリカから帰ってきて4、5年経った時に緑内障になって、治ったら全盲になってしまいました。いずれにしても、見えないことそのものはどうってことないの。
でも、とにかく「待つ」のが嫌でね。アイメイトを得るまではどこへ行くのでも誰かに付き添ってもらっていたんです。学校から父の店に連れて行ってもらって、閉店までずっと帰宅を待っていたりしてね。アメリカでも留学先の大学の女子学生がヘルパーさんをしてくれていたんですけれど、その子が友だちとのおしゃべりに引っかかると終わるまで何時間も待ちました。
私ね、小さい頃からあこがれていたことがあるんです。よくそのへんで立ち話してるでしょ、おばちゃんたちが。で、「じゃーねー」と別れていくでしょ。あれ1回やってみたいなあと思っていたんです。誰かと一緒だったらそれができない。自由がきくということはすごいことですよ。視覚障害者にとって一人歩きができないのが一番困ることなんです。
戦時中から戦後にかけては、遠く横浜の盲学校に通った。
初めは大阪の盲学校に行っていました。普通の盲学校なので、鍼灸・マッサージ師になるコースと音楽科があって、私はお琴とお三味線。だけどね、私お琴がダメだったんですよ。好きじゃなかったの。先生がおじいさんなんですよ。それも嫌でね。怒られるしね。なんとかしてやめたいから「今日は譜面を忘れてきたと言おうかしら」とかね。そんなことばっかり思ってました。馬鹿ですよねえ。
そんな様子が心配だったのでしょう。なんとか自立させようと父があちこちの学校を調べて、横浜の私立の盲学校を見つけたんです。ほかとちょっと違っていて、寄宿制で子供を自由にさせて独立心を養うというような学校でした。といっても戦中・戦後でしょ。大変な思いをしたんですよ。勉強なんかしないで、草抜きとか防空壕掘りを手伝わされる。調理場も全部任されてたんですよ。私たち2人が全盲で、あと2人が弱視。50人分毎日作っていた。まだ14、5歳の子供ですよ。よくやっていたなあと思います。
絶対に盲導犬を持ちたい!
卒業後帰郷して専門学校で英語の勉強を始めた。在学中の優秀な成績が認められ、ひょんなきっかけからアメリカに留学することになった。
当時は英語ブームだったんです。これからは英語が話せなければ就職もできないという世相でした。一般の社会人向けの夜学ですから、ほかの生徒はだいたい昼間は働いている。私は英語しかしていないから・・・まあ、目をかけてくれたのかもしれませんね。留学のあっせんをするアメリカ人のスポンサーがいて、声がかかったんです。なんでも、最初は中国人を招きたかったが、共産化してダメになったから日本人で適当な人を探していたとか。何度も手紙をもらっているうちに「行く行く!」とその気になっちゃったんです(笑)。
1951年に単身渡米。テキサス州の州立大学に4年、ボストンの盲学校に1年通った。当時は盲学校の先生になりたいという夢があったため、教育学を学んだ。
メキシコとの国境にあるエル・パソという町です。大学の授業の英語は難しかったですけど、点字は日本語より簡単なんです。結局、向こうの教員免許を取っても日本では使えなかったんですけどね。
初めて盲導犬に会ったのは、大学の教室でピアノの練習をしていた時。ノックして入ってきた人が連れていたんです。Julio(フリオ)さんというメキシコ人の調律師の方でね、「この子と一緒ならどこへでも行けるよ」と言うんです。もうその時から、絶対私も持ちたい!って。相変わらず「待つ」ことが嫌でしたから。
テキサスの大学は4年で卒業したんですが、どうしてもアメリカの盲学校も体験したかった。あこがれていた学校があるんです。ボストンのパーキンスというヘレン・ケラーも出たアメリカ最古の盲学校。無理を言ってそこへ1年間行かせてもらったのですが、世界中から留学生が来ていたし、私たちのことをよく知っている環境でしたから、楽しかったですねえ。
そのボストン時代に、ニューヨークの『The Seeing Eye』(注 : アイメイト協会と交流のある、現存する世界最古の盲導犬育成団体)を訪ねる機会があったんです。学校の施設訪問会でしたけど、絶対に犬が欲しいと心に決めていました。「私、犬を連れて帰りたいです。今ここで訓練してもらってもいいです」ってね。でも、フォローアップができないから、「海外はダメです」と。そんなこともありました。
とにかく犬を信頼すること
帰国したのはちょうど第1号の河相洌さんがチャンピイと歩み始めた年。戸井さんはすぐに卒業した英語学校の講師になった。念願のアイメイトを得たのはその6年後の1963年のことだ。
日本でも盲導犬が持てると聞いて、帰国後間もなく塩屋先生に会いました。当時、塩屋先生はとてもお忙しくて、「いつになるか分からないけれど、待っていてほしい」と。その言葉を励みに何年も待ちました。
塩屋先生は、すごく細やかな神経を持った方。視覚障害者のことを分かってくださろうと一生懸命になられる。歩行指導では「そんなことくらい分からないのか」というようなことは絶対におっしゃらない。丁寧に理路整然と説明してくれました。
オディと帰ってきてから早速、家の周りの知っている道を歩き回りました。昔行ったことのあるおいしいコーヒー屋さんとかね。そのコーヒー屋さんの近くに着いたことが分かったら、座り込んでオディを抱きしめましたよ。一人で歩ける。こんなに嬉しい、楽しいことはない。涙が出ました。
2代目のクリスとは、視覚障害者用の読書機の講習のために思い出の地、アメリカへも行った。30年勤めた英語学校への通勤も、ずっとアイメイトと一緒だった。
とにかく犬を信頼することです。そうじゃなきゃ歩けません。「この子と歩いていれば絶対大丈夫。この道に何かあったってぶつかることはない、落ちることはない」と。歩行指導を修了するのは大変なことかもしれません。得意不得意があって、人一倍苦労する方もいます。でも、若いころの私のように一人で歩きたい一心ならば、絶対にできないことはないと思います。私、よく言うんです。アイメイトと一緒に家に帰ったらこっちのものだってね(笑)。
一人で歩くことほど楽しいことはない 戸井 美智子
アイメイト55周年記念誌『視界を拓くパイオニア』(2012年発行)より