アイメイトを社会に認めさせたもう1人のパイオニア

2017年7月現在、最古参・最高齢のアイメイト使用者は石川県の佐藤憲さん(84)だ。1970年に最初のパートナーを得て、現在は6頭目のアイメイトと歩いている。

佐藤さんは、単にベテランの使用者というだけでない。アイメイト60年の歴史のうち、47年間を現役使用者として過ごしてきた。その歩みはアイメイトの歴史と共にあったと言っても過言ではないだろう。佐藤さんは使用者の立場で、公共交通機関の乗車や宿泊施設・レストランなどへの入店といったアイメイトの社会参加の道を切り開いてきた重要人物の一人だ。「塩屋賢一さんはアイメイトを作る人、佐藤憲さんはアイメイトを社会に認めさせる人」というフレーズは、今もアイメイトの歴史の中で語り草になっている。

佐藤さんは今、アイメイト使用者としてのラストスパートに差し掛かっている。あらためて過去の貴重なお話を伺うとともに、未来に向けた思いを語っていただいた。

奥様の犬への思いやりがバス乗車の先鞭をつける

佐藤さんは石川県加賀市の伝統のある温泉街、山中温泉で鍼灸マッサージ師として活躍してきた。現在は、息子さんが経営する接骨院の3階で奥様の節子さんとアイメイトとともにリタイア生活を送っている。「多い時は従業員を20名以上抱えてこの山中温泉で仕事をしていたんですよ。でも、心臓の手術を2回もしておりましてね。一時はアイメイトもやめようかと思ったんですが、今ここにいるのが6頭目です」

64歳の時に心筋梗塞で倒れた。それをきっかけに仕事は引退したが、アイメイト歩行は続けた。「今はもう飲まんけれど、ニトロという心臓の薬を(発作を抑えるために)持ち歩いていた時期があってね。(アイメイトと)道を歩いとって、つらーくなるとポケットに手を入れて(ニトロ製剤のビンを)出すんですよ。そうするとね、アイメイトが頭でぐーっとね、私を道の隅に押していくんですよ。『休め』って」

「本当に、犬はそういうこまーいこと(人の細かい気持ち)が分かるんです」と節子さんが続ける。もともと犬好きだったのは節子さんの方で、佐藤さんはそうでもなかったという。アイメイトのバス乗車を切り開いたきっかけも、奥様の犬に対する思いやりだった。「最初の犬をもらったのは昭和45(1970)年です。でも、練馬の塩屋さんの所から石川に戻ってきても、バスは乗せない電車は乗せない、タクシーにも乗れない。ほとほと困ったわけですが、やがて近くにもう一人使用者が誕生しましてね。その人もやっぱり乗せてもらえなかった」

その使用者は雨の日もアイメイトと歩いて通勤していた。「それを見て家内が『あの犬雨でベッタベタになって歩いとる。かわいそうに』って哀れんでね」。節子さんは意を決してバス会社に出向き、「犬のためにもぜひ、その人を乗せてやってください」と、直談判した。それでも最初はダメだと言われたが、粘り強い交渉の結果、最終的にはアイメイトの乗車が認められた。

 

戦中戦後に盲人として生きる道を切り開く

「そうやって家内が一生懸命やったものだから、私もやらざるを得なかったわけです」と謙遜するが、奥様が先鞭をつけた社会参加の扉を押し広げたのは、他ならぬ佐藤さん本人だ。激動の戦中戦後をハンデを背負いながら生き抜いてきた男である。自由のために自ら道を切り開く生き方は、アイメイトを得る前から佐藤さんの人生に根付いていたのだと思う。

福井県に生まれ、3歳の時にはしかが原因で失明した。父親と病院に行った際に、医者が「こうして来院し続けるのも大変だし、死亡診断書を書いてやろうか?」と言ったらしい。当時の記憶は鮮明ではないが、父親が激怒したのをよく覚えているという。「見える」とか「見えない」ということが幼い頃はよく分かっていなくて、10歳くらいになって初めて「妹や弟は学校に行くのに、なんで自分は行かないんだろう」と、周囲との違いをはっきりと認識した。

「みんな学校に行っているのに、僕はなんで行けないの?と親父に聞きましたよ。そうしたら、『お前はそこらの学校とは違う素晴らしい学校に行くんだから、もうちょっと待て』言うて。弱ったなあ、と思ったけれども、少ししたら本当に福井の盲学校に入ったんです」ところが、念願の学校へ通い始めたものの、やがて戦争が激化。昭和20年7月19日の福井大空襲の後、学校は閉鎖された。

「それで金沢の盲学校に転校して勉強したわけですけど、終戦後の昭和25、6年ごろかな?(戦後復興のために)東京に人を増やさないといけないという時期があったんですよ」その流れの中で上京して大学に通う決意をし、入学試験を受けたが、入学許可は得られなかった。「当時、都会はまだ食糧難でしょう。母親が『毎月(田舎から)米一斗ずつ持っていくから、入れてやってくれ』と頼んだけれど、そんなことしたら警察に捕まると(笑)。結局あの戦争の、終戦のごたごたで大学には行けなかったのです」

アイメイト協会創設者、塩屋賢一が日本で初めて育てた「国産盲導犬第1号」のチャンピイの使用者、河相洌(かわい・きよし)さんは、ちょうど同じ頃、視覚に障害が出て通院するために、通っていた大学を休学していた。その河相さんも視力を失った後、「盲人が大学に通った前例はない」と言われ、最初は復学が認められなかったという。河相さんは粘り強い交渉の末復学を勝ち取ったが、佐藤さんのような失意もあったからこそ、後の世の中が動いたのではないだろうか。佐藤さんは大学進学を断念した後、鍼灸マッサージ師となり、東京、京都、北海道と渡り歩き、最後に高度成長期の温泉旅行ブームに沸く山中温泉(石川県加賀市)に落ち着いた。

有力政治家にも直談判

佐藤さんが最初のアイメイト、シェパード犬(当時のアイメイトは、ジャーマン・シェパードから今のラブラドール・レトリーバーに切り替わる直前だった)の『アニタ』を得たのは、河相さんがチャンピイと歩き始めた1957年の13年後の1970年のことだ。盲学校の教師だった河相さんは、その当時、チャンピイの後を継いだ『ローザ』と共に歩んでいたが、転勤によってバス通勤になったのに伴い、チャンピイとしていたようにローザとは一緒に教壇に立つことはできなくなっていた。日本に盲導犬が誕生して10年余り経ってもなお、バス乗車が認められていなかったからだ。

佐藤さんの奥様のバス会社への「直談判」は、そういう時代を切り開くエポックメイキングな出来事だった。そして、既に山中温泉の鍼灸マッサージ師を取りまとめる地元の名士になっていた佐藤さんは、出張先や旅行の先々でアイメイトの行儀の良さを実証しながら、公共交通機関の乗車やホテル・レストラン・店舗などへの入店の幅を広げていった。病院へアイメイト同伴で入れるようになったのも、旅先での見舞いのためにと交渉し、実現した佐藤さんの尽力がきっかけだという。

幅広い人脈を使うことができたのも強みだった。地元出身の有力者らも折りに触れ、佐藤さんの頼みならと積極的に動いてくれた。その一例を佐藤さんが明かす。

「今のアイメイト協会の建物を建てる時、最初は元いた練馬から少し郊外に移転する予定だったんです。でも、『犬なんか来たらこ汚くていかん』と、(地域の)みんなに反対された。で、市長が会うというから後援会(アイメイト後援会=協会公認のボランティア組織)の人たちと一緒に僕も行ったんです。でも、市長に言いたいことは全部言ったけれど、結局は『勘弁してほしい』と言われてしまった」

そこで、佐藤さんは当時から親しくしていた石川県出身の森喜朗元首相を訪ねた。「森さんが『そんな断ってくる所、行かんでもええやん。東京にはいくらでも地面あるが』と言うので、『本当に今すぐにあるんけ?』と返すと、当時の大蔵大臣に電話をかけ始めた。アイメイト協会ってどこにあるんや、と聞くので『練馬の関町』と言うと、周辺で移転先を探すと言う。2、3日後に呼び出されて再び尋ねると、5、6人(土地売却)希望者が来ていました」不動産バブルが続いていた当時のことである。相続税を支払うために売りに出されていた土地が、練馬あたりにも結構あったのだ。

郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、運輸大臣を歴任した石川県出身の奥田敬和衆議院議員の大臣室を訪ねたこともあった。奥田氏は、佐藤さんとの縁がきっかけとなり、アイメイトのバス乗車時の口輪装着義務の撤廃や、道路交通法に「目の見えない者は白杖または盲導犬を伴って歩く」と、盲導犬歩行を成文化するなど、アイメイトの社会参加に尽力。後にはアイメイト協会の顧問も勤めた。こうしたことも、佐藤さんの訴えがなければ実現しなかったであろう。1994年11月、佐藤さんは、長年のアイメイトの社会参加に対する功績を認められ、藍綬褒章を受章した。

大臣への直談判に同行したことがある塩屋隆男アイメイト協会代表理事は、「一般人は普段考えることもありませんが、国務大臣を大臣室に訪ねていくというのは、望んでもできないことです。佐藤さんは電話一本で出向きます。佐藤さんの熱意と人柄に触れると相手側がそれを受け入れざるを得ない、というところに佐藤さんの力があるといえます」と語る。

 

「自分のため」が「みんなのため」に

いい犬を育て、「視覚障害者の自立をお手伝いする」というのが、塩屋賢一が生前に掲げ、今もアイメイト協会に受け継がれているモットーだ。一方で、佐藤さんをはじめとする初期の使用者が、逆に協会の歩みを支えていたことはあまり知られていない。

「仕事はやめてもね、やはりアイメイトのことは気になりますよ。東京オリンピックまでに主要駅全てにホームドアをつけると点字新聞に書いてありましたね。その一方で、東京でもアイメイトのワン・ツー場所(トイレ)はほとんど整備されておらんのです。その話を森さんにしたら、『分かった』と言いました。2020年までわしは生きているか分からんけれど、『口だけで作らなかったらまた会いに行ったろう』と思って頑張っているんですがね(笑)」

佐藤さんらの努力で昔とは比べ物にならないほど改善したとはいえ、今も入店拒否や乗車拒否の事例が日常的にアイメイト使用者から報告されている。最新の調査(2017年3月)でも、6割以上のアイメイト使用者が入店拒否などの差別的な扱いを経験していることが明らかになっている。

 「自分(の周りの環境)が良くなれば他の使用者も生きやすくなるだろう、そう思ってやってきました」

6代目のアイメイトは10歳。自身の年齢を考えれば、「次はもう無理」だと笑う。次の世代が切り開かなければいけない道は、ずっと先まで続いている。

 

文・写真 内村コースケ(2017年1月取材)

 

 

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2017年8月22日公開