「なんでも自分でやりたい」と歩き続けた50年

視覚障害者が人の手を借りないで、アイメイトや白杖の助けだけで歩くことを単独歩行と言う。多くの視覚障害者が、「一人でどこへでも出かけられるようになれば自立した生活が送れる」と語る。つまり、アイメイトを持つ目的は、自立のためにほかならない。

ところが、近年は盲導犬を連れながら同時にガイドヘルパーも頼んで外出する人が増えているという。盲導犬がより身近になると同時に、ガイドヘルパーの同行援護を頼みやすくなった時代背景もあるし、個別の事情もある。犬がいながら単独歩行をしないからといって、一概に批判することはできないだろう。

とはいえ、他の盲導犬育成団体では必ずしも単独歩行を目的としない場合がある一方、アイメイト協会の歩行指導はあくまで単独歩行の実現を目指している。しかし、そのアイメイト使用者の意識も変わってきていると指摘する関係者は少なくない。たとえば、ベテラン使用者の吉田美津江さんはこう嘆く。「自分が一人で歩きたくて犬(アイメイト・盲導犬歩行)を選んだのでしょう?それなのに、犬がいるうえにガイドヘルパーさんがついている人が最近は増えた。そんなのでいいの?って思います」。吉田さんは75歳の今も、6頭目のアイメイトと単独歩行を続けている。

生涯現役のスポーツウーマン

 

東京・多摩地区にある障害者スポーツセンター。吉田さんは、週に1回ほど、ここでブラインドテニスに汗を流す。中に鈴が入ったボールを、音を頼りに追う。他の仲間たちは弱視や晴眼者。全盲の吉田さんはその中で、自分より若い人たちや男性たちと対等に渡り合う。

もともと運動は得意だ。若い頃には、ソフトボール投げで全国障害者スポーツ大会に出場したこともある。見えなくなってからも、陸上、登山、乗馬、ダイビングと、さまざまなスポーツに挑戦した。最近になって初めて車の運転にもチャレンジした。「サーキットで視覚障害者の運転ツアーがあるんですよ。今年はコロナで中止になってしまったけれど、その前には3回連続で行きました。面白かったですよ〜」。まだ視力があった10代の頃には、兄のオートバイを借りて町中を走ったこともあったという。いわゆるおてんば娘だった。

終戦直後の1945年10月、茨城県の農家に生まれた。4人兄弟の3番目。幼い頃から夜盲の症状を自覚していたが、戦後の混乱期のこと。地元の病院に行っても、栄養不足だと肝油を飲まされただけだった。「水戸の大きな病院では網膜症とか言われて。でも、結局詳しいことは分からなかったのよ」。網膜色素変性症という難病で、やがて視力を失うことが分かったのは、叔父のつてで東大病院で検査を受けた高校3年生の時だった。高校へは自転車で通っていたくらいだから、本人にしてみれば青天の霹靂だった。

 

 

18歳で盲学校へ

 

「それが18の時でしょう。10年くらいで完全に見えなくなるから、今のうちに盲学校へ行きなさいと先生に勧められました」。その場で叔父が教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)への進学を決めた。学校へ問い合わせると、ちょうど新しい科ができるので、4月からすぐに来なさいと言われた。「あれよあれよという間に話が進んだから、見えなくなったらどうしよう、と悩む暇もなかったんですよ」と吉田さん。実家を離れて、学校の寮に入った。

「それまでに全然知らない世界でした。みんな杖をついて歩いていたり、杖を持っていない人も見えないふうだけどシャッシャッと歩いていたり、人につかまって歩いていたり。それに、人の目を見て話さない。声だけでお互いにコミュニケーションを取っている。それが不思議で不思議でね」

吉田さんが入ったのは、鍼灸マッサージ師の資格を取るための「二部専科」というコース。高校まで一般の学校に通っていた人たちが集まっていて、社会人経験者もいた。7人の同期生の中で最年少。この時の仲間の一人が1歳上のご主人、勇さんだ。「(歳下で)かわいがられていたというよりは、うるさくてね。おしゃべりでした」と、吉田さんは当時の自分を思い出して笑う。「まあ、にぎやかな方だったね」と、寡黙なタイプの勇さんも頷く。日本中が東京オリンピックに湧いていた青春時代。吉田さんもスポーツに熱中した。

 

「僕はその人の意欲を買うんだよ」

 

卒業して間もなく勇さんと結婚。1年後に一人息子を授かった。病院勤務の勇さんは仕事の虫。家庭のことは妻に任せるという、昭和の男だ。一方、吉田さんは自分のことはなんでも自分でしたいというタイプ。そんな二人だからこそ、気が合うのだろう。

見えなくたって、私は主婦だから。買い物から料理、子育てまで全部自分でやらないと気が済まない。人にやってもらったとしても、後から点検するほどです(笑)。親を早くに亡くしたからかもしれないけれど、そうねえ。4人兄弟で私が一番きかん坊かもしれませんね

「子育てと家事のためにアイメイトを持った?」と聞くと、吉田さんは必ずしもそうではないと言った。それ以前に、持ち前の性格から、なんでも自分でする=自立することが人生の大前提だった。テレビのドキュメンタリー番組で盲導犬の存在を知り、1972年、ちょうどお子さんが幼稚園に上がる頃に、アイメイト協会(当時は東京盲導犬協会)の創設者、塩屋賢一を訪ねた。「でもね、当時東京都は就労者しか駄目だったの。私主婦でしょ?でも、絶対に自分のことは自分でしたいって、塩屋先生に訴えたの」。当時は、自治体によっては主婦などの非就労者は、盲導犬の助成金給付事業の対象外だったという。

「そうやって、とにかく一人で歩きたいと一生懸命頼んだら、塩屋先生は『僕はその人の意欲を買うんだよ』って言ってくださいました。色々と取り計らってくれたようで、半年後くらいに歩行指導を受けることができたんです」。その頃には、吉田さんの視力は視野が極端に狭まり、歩道の白線がごくわずかに見える程度。白杖歩行の経験もないまま、最初の2週間は半日ほどかけて当時吉祥寺にあった協会まで、徒歩と電車とバスで一人で通った。

当時の塩屋賢一の印象を聞くと、吉田さんは「おっかない先生でした」と笑顔で答えた。「もうね、雰囲気が怖いんですよ。心の中をみんな見透かされているようで」。だから、ごまかしや嘘は絶対に通じない。当時は部下の指導員たちが一斉に夜逃げのような形で退職した苦難の時代。正規の指導員がおらず、賢一が一人で生徒と見習いの職員の指導をしていた。「見習いが4人くらいいたかな。みんなメモを取りながら先生の話を聞くんだけど、先生は『それはさっき言っただろう!』『お前聞いてんのか!』ってね。今の隆男さん(現・代表理事。賢一の長男)と声がそっくりでしたよ」。

一方で、賢一の暖かさに触れる機会も多かった。「苦労して町を(候補犬と一緒に)歩いて帰ってくるとね、必ず先生が玄関にいるの。『お疲れさま』って言って」。人に対しても犬に対しても、よく出来た時には褒めることを忘れなかった。

塩屋先生は優しい時は優しいんですよ。犬には『いい子だな、お前』って人間の子供に言い聞かせるみたいに言うのね。ベタベタはしない。『本当に犬が大好きな人はああなんだな』と思いました

 

 

真面目なジャーマン・シェパードのアイメイトたち

初代のクナ(左)と3代目ブロディア=吉田さんのHPより

 

1頭目のアイメイトは、『クナ』というジャーマン・シェパード。1972年に誕生した91組目のアイメイトペアだ。クナとは、ドイツ語で「同類のもの」という意味。当時から犬を対等な存在として扱っていた名付け親の精神が伺える。初期のアイメイトはジャーマン・シェパードだったが、この頃には既にラブラドール・レトリーバーのアイメイトも誕生していた。吉田さんはシェパードのアイメイトを知る数少ない現役使用者なのだ。シェパードはとにかく真面目にまっすぐ歩くと言う。一方、ラブは愛嬌があって誰にでもかわいがられる反面、「遊び心」がいっぱい。「あんた仕事してるの?ってね。道で知り合いに会って『あら、こんにちは』なんて言われると尻尾振ってそっちに行っちゃったりね」と吉田さん。それだけに、シェパードのように見た目で怖がられることはない。吉田さんにしてみれば、どちらも等しく愛おしいパートナーだ。

クナの初仕事は買い物だった。幼稚園児の息子さんの手を引いて、バス通りの坂を10分ほど下った所にあった食料品店へ行った。「これまでは夫がやっていたことを、絶対絶対、自分でやるんだと。それは嬉しかったですよ」。とはいえ、盲導犬の認知度がまだまだ低い時代。ほとんどの店には入れなかったし、町の人がそばに寄ってきて「なんだこれ?噛み付くか?」などと言われることもしばしばだった。「幼稚園も最初はダメでした。『犬が嫌いな子供もいるから』と。そうでない子は、『わーっ、犬だ!』としっぽを捕まえたりする。そういうことも先生たちは心配してね。でも、『この子は大丈夫だから』と、2、3日通い続けて分かってもらったの」。やがて、クナが「目の仲間=アイメイト」として仕事をしていることが浸透し、先生たちが「吉田くんのおばちゃんが連れている犬を触っちゃだめよ」と、自然に子どもたちに言い聞かせるようになった。

しかし、小学校へ上がるとまた一からやり直しだった。校庭までなら入っていいと言われたものの、親が小学校へ行く用事といえばPTAの集まりや授業参観。校舎に入れなければ意味がない。やがて、困っていることを聞きつけた塩屋賢一が学校に来てアイメイトの社会参加の必要性を説明してくれた。それでようやく校舎に入れるようになったが、すぐに引っ越し。幸い、転校先の小学校では担任に理解があり、同じ苦労をする必要はなかった。昭和の頃は法律が整っておらず、まだまだ個人個人の裁量に左右される時代だった。

当の息子さんは、歴代のアイメイトと大の仲良し。3代目の黒シェパードのブロディアとは、同じベッドで寝るほどだった。大学生になった息子さんを朝起こすのも、ブロディアの仕事だった。「もちろん、ハーネスをつけるとビシッと仕事をします。でも、黒いシェパードはみんなに怖がられてね。ラブに切り替わっていったのは、周囲の反応という理由が一番大きかったのだと思います」。

 

「自分で行動できなければ何事もできない」

 

 

ブロディアの後は、現在の6代目までラブのアイメイトだ。「とにかく遊び人なのよ、シェパードに比べたら」。そうつぶやく吉田さんの表情はあくまで優しい。歴代のアイメイトたちは、「賢くて黙々と働いている」という世間のステレオタイプな盲導犬のイメージとは必ずしも合致しない。「ある時、魚屋さんに行ったらイワシが大盛りで盛ってあったの。その一番上の一匹を「ワン!」ってくわえて。(口元を)触ったら、イワシの頭としっぽがこっちとこっちから出てるのよ。悪いから、一山全部買うと言ったら、『いい、いい、持ってけ』って」。そんな世間の鷹揚な反応も、ラブの憎めない明るさにほだされてのことかもしれない。

かつてはどの町にもあった個人商店の魚屋さんや八百屋さんも、今はほとんど姿を消した。コロナ禍も手伝い、個人商店派だった吉田さんも最近はネットスーパーを愛用している。70を過ぎても新しいチャレンジに積極的で、パソコンやスマホもお手のもの。ただ、最近はよく利用していた大手スーパーのスマホアプリの仕様が変わって買い物ができなくなり困っている。音声案内だけではサイトで求められる画像認証ができず、どうしても決済までたどり着けないのだ。要望を出しているものの、すぐに視覚障害者や聴覚障害者の利便性に対応できる企業は少ない。

今日まで、子育てからスポーツ、海外旅行、パソコンまでなんでも自分でやってきた吉田さん。「マッサージの仕事をしている視覚障害者の多くは、コロナで仕事がなくなって困っています。(視覚障害者団体が)補償しろと一生懸命運動していますね。その一方で、歩けないことに対してはどうしようもない。最近は盲導犬使用者でもヘルパーさんに頼る人が増えていますが、今は濃厚接触になるからと断られるケースが多いと聞きます。だからね、やっぱり自分で行動できないと何事もできないと思うんです。コロナ前は、一人でアイメイトと駅前に立っていたりすると声をかけてくださる方が大勢いましたが、今は誰も声をかけてきませんしね」

コロナだけではない。世の中が厳しくなれば人々の心は荒み、いままであった他人の親切が当てにならなくなることもある。社会の助け合いの精神は大切だし、皆がお互いに支え合う社会であってほしい。だが、その基礎には個人個人の「自立心」がある。吉田さんは視力を失ってからも、半世紀にわたって高い自立心を持ってアイメイトと歩み続けている。

盲導犬使用者の集まりで、ある人が排便させたら、ヘルパーさんが飛んで来て、そのワンコちゃんのツーを拾ってるんですよ。塩屋先生の言う犬をコントロールしていない、犬に連れられているという状態ですね。塩屋先生のミーティングに耳を傾けていた昔の人はみんな、自分でなんでもやるものだと思っていましたよ

 

 

 

 

文・写真/内村コースケ(2020年8月取材)

 

2021年3月8日公開