海外で活躍するMade in Japan のアイメイト

アイメイトをめぐる誤解の一つに、盲導犬の先進国はイギリス、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国で、「日本は外国のやりかたを真似て盲導犬を育成してきた」というものがある。確かに、盲導犬が社会で活躍している地域は、欧州、北米、豪州、日本にほぼ限られる。

ただ、注意しなくてはならないのは、ほとんどの場合、各国内には盲導犬育成団体が複数あり、それぞれ視覚障害者福祉に対する考え方や方針、育成法が異なるということだ。たとえば、アメリカなら16団体(※National federation of the blindによる)、ドイツでは地域支部的な団体・個人を含め40(※The voice of blind and partially sighted people in Europeによる)もの育成機関がリストアップされている。つまり、「国」を単位に進んでいるとか遅れているとは、必ずしも言い難い状況なのである。

では、日本の状況はというと、その歴史は戦後からと、欧米に比べて浅いにも関わらず、11もの団体が狭い国土にひしめいている。しかも、それらはすべて独立した別組織で、地域支部などは含まない。そして、どうしても強調しなくてはならないのは、アイメイト協会は、日本で最初に盲導犬の育成法を独自に確立し、1957年に初の国産盲導犬『チャンピイ』と使用者の河相洌(かわい・きよし)さんのペアを世に送り出した塩屋賢一直系の育成団体であるという事実だ。

国内で2番目の実績がある「(公財)日本盲導犬協会」も、もともとは塩屋賢一が設立に関わった団体だ。しかし、ある時期から他の理事らとの間で盲導犬育成事業に対する考え方の違いが表面化し、賢一は「盲導犬は盲人の目である」というポリシーを貫くために、1970年に弁護士を通じて日本盲導犬協会から訣別した。

訣別後の日本盲導犬協会を含む後発の他の10団体は、賢一が成し遂げたように、前例を真似ることなく一から実地を重ねながら独自の育成法を生み出したという歴史を持たない。だから、「外国のやりかたを真似て盲導犬を育成してきた」という見方は、アイメイト協会のみを指すのであれば誤解である。しかし、同時に、他団体については的を射た面もあると言えよう。

これが何を意味するかというと、少なくともアイメイト協会が育成する盲導犬に関して言えば、『アイメイト』という独自の呼称が示すように、それは純然たるMade in Japanだということだ。そして、今、海外で活躍する唯一のMade in Japanの盲導犬は、シンガポール在住のLim LeeLee(リム・リーリー)さんのアイメイトである。

(※注)ここでの「盲導犬」とは、視覚障害者の目の役割を果たすために訓練された犬全般を指す。「アイメイト」は、アイメイト協会が育成した盲導犬のみを示す。

英国の盲導犬使用者の物語に憧れて

 

リーリーさんは1967年生まれの中国系シンガポール人女性だ。全盲で、子供の頃から視覚障害があった。両親と暮らしながら(しばらく前に父は他界)、受付、テレマーケター、保険代理店勤務、企業の広報担当、ブログ制作などの仕事を経験し、現在は家庭教師、文字起こし、企業内教育の管理業務などをしている。こうした職歴を見ただけでも、独立心とチャレンジ精神に満ちた女性であることがよく分かる。

自立していなければ、興味を持ったことにチャレンジすることもできません。そのチャレンジが、楽しいことだったり世界を広げることにつながる。だから、障害があっても自立しなければいけないのです。

シンガポールでは、2005年にファ・チェン・ホックさんという男性が初めてアメリカの盲導犬育成団体で歩行指導を受けて、その後シンガポールに帰国したのが最初の使用例だという。現在はリーリーさんを含め、7人の使用者がいる。他の6頭は、アメリカとオーストラリアの盲導犬(Guide dog)だ。リーリーさんは2013年秋に来日して他の国内の使用者と同じようにアイメイト協会で4週間の歩行指導を受け、卒業後パートナーと共に帰国して充実した日々を送っている。

「子供の頃に“Emma and I”というシーラという英国人女性と盲導犬のエマの物語を読んで、盲導犬に憧れました。シーラがいかにエマと共にイギリス中を回り、自立したかという話です。私はまさに、若い頃からそういうことがしたかったのです」

1982年に初めてシンガポールにオーストラリアから1頭の盲導犬が輸入されたが、シンガポール側の法律やインフラ整備が追いついておらず、翌年にはオーストラリアに返されてしまったという。当時15歳だったリーリーさんにとっても、いったん膨らんだ夢がしぼんでしまった形になってしまったが、2005年に先述のチェン・ホック氏がアメリカの盲導犬を得たことを知り、「盲導犬を持ちたい」という気持ちが再び大きく膨らんでいった。

アイメイトを希望

リーリーさんは身長150cmと小柄だ。「アメリカやオーストラリアの盲導犬は私には大きすぎると思います」と笑う。チェン・ホック氏に面会し、盲導犬を持ちたいと相談すると、アイメイトを勧められた。

シンガポールや東南アジアでの盲導犬普及に尽力するチェン・ホック氏は、IGDF(国際盲導犬連盟)の会議を通じてアイメイト協会の塩屋隆男代表理事らと知り合い、来日してアイメイト協会を見学したことがある。その際に、アイメイトの能力の高さや理念に感銘を受け、リーリーさんに「日本のアイメイトは良いよ。小柄な犬が多いのもあなたに合っている」と勧めたのだという。

「私は彼の言うことを信用して、細かいことは聞きませんでした。実行あるのみ。日本で歩行指導を受ける資金を捻出するために、ラジオでカンパを呼びかけるなどしました」

周囲の応援もあってやがて念願の来日が叶った。リーリーさんの母語はシンガポールの公用語である英語と中国語。最初は言葉の不安があったが、幸い協会には英語が堪能な歩行指導員とスタッフがおり、特にハンデを負うことなく歩行指導を受けることができた。帰国後、アイメイトの使用にあたって分からないことが出てきて協会に相談したところ、担当指導員がシンガポールに赴き、リーリーさんの生活環境を実際に見てフォローアップを行った。

初めての国での歩行指導は、リーリーさんにとって一生の思い出になったようだ。昨年(2016年)11月、お世話になった協会スタッフや一緒に歩行指導を受けた同窓生、支えてくれたボランティアらに再会するために単独で再来日した。

「最初は晴眼者の友人と一緒に来る予定だったのですが、事情があって友人は来られなくなってしまいました。それでも、ずっと日本に帰って皆さんに会いたいと思っていたので、1人ででも来ることにしたのです」と、来日時に彼女は語っている。来日中は、協会スタッフや多くの後援会員と交流。観光や新しいアイメイトのコート(毛の飛散防止用の洋服。ボランティアが手作りしている)の採寸もした。

 

アイメイトはシンガポールでも大人気

まだ盲導犬が7頭しかいないシンガポールに比べれば、日本はアイメイト使用者にとって行動しやすい環境だったことだろう。

「交通インフラなどは基本的に同じです。点字ブロックもあります。ただ、日本の点字ブロックの方が凹凸がはっきりしているなど、色々と日本の方がベターだと思います」

日本でもしばしば問題になっているが、シンガポールでもレストランや病院などで入店拒否があるという。まだ盲導犬使用に関する法がきちっと整備されているわけではないので、リーリーさんはその都度アイメイトについて、「これは単なる犬ではなく、自分の目であり、体の一部です」と説明している。また、学校やイベントで講演をするなど、積極的にアイメイトの啓発活動を展開している。かつての日本でもそうだったように、使用者一人ひとりの努力の積み重ねがやがて社会を拓いていくことだろう。

「視覚障害者であることで差別を受けることはありますか?」という質問に、リーリーさんはこう答えた。「アイメイトを得るまでは白杖で歩いていたのですが、シンガポールはどこへ行っても人が多く、おまけに最近はタブレットやスマホを見ている人ばかり。押されたりぶつかったり、弾き飛ばされることがしょっちゅうありました。ひどい時には『目が見えないくせに外出するな』と悪態をつかれたこともあります。白杖を折られたこともありました。『白杖が折れたので帰れなくなった』と訴えると、相手は逃げ出してしまいました」。

そうした日常が、アイメイトを得てガラッと変わった。白杖歩行をしていたころはもう嫌な思いをしたくないから、出かけるのを躊躇することもあった。今は人でごった返す新しく出来たショッピングモールに出かけたり、新しいチャレンジをするために初めての企業に面接に行ったりと、行動がより積極的になった。

アイメイトを得てから、まっすぐに速く歩くことができるようになり、スムーズに好きな場所へ好きな時に行けるようになりました。アイメイトは、電車、バス、タクシー、車などのドアを探すのも手伝ってくれます。空席を探すのもすごく上手です。レストランや食堂では、空いているテーブルまで誘導してくれます。もし私がエスカレーターが混雑しすぎているなと判断すれば、私の指示によってエレベーターを探すこともできます。買い物にも一緒に行きます。スーパーでは野菜売り場など色々な売り場に行くよう指示を出しますが、それに従って各売り場まで誘導してくれます。職場では、私の仕事が終わるのを自分の待機場所で待ちます。周囲の人達は、アイメイトの行儀のよさやプロとしての仕事ぶりにとても驚いています。シンガポールで私のアイメイトは、子どもも知っているほど有名なんですよ。

 

文・写真/内村コースケ(2016年11月取材)

 

2017年5月15日公開