積極性の源は高い自立心

アイメイト使用者には自立心が高い人が多い。障害を受け入れつつ「自分でできることは自分でする」という意思を強く持っている人が、歩行の自由を望むのは当然かもしれない。

静岡市在住のベテラン使用者、千代元子(せんだい・もとこ)さんは、その中でも特に活発な女性だ。2人のお子さんを育て上げた後、70代の今も新しいことにチャレンジし続けている。視覚に頼らずにお化粧をする「ブラインドメイク」もその一つだ。

最先端技術にも敏感。若い頃にはアマチュア無線、今は携帯電話・スマートフォン、パソコンを駆使してコミュニケーションの幅を広げている。そうしたチャレンジを「頑張る」のではなく、楽しみながらできる感性は、7頭のアイメイトと歩んできた人生で育まれてきた。

幼少時のトラウマ

 

 

ペット愛好家と違い、アイメイト使用者は犬が好きだからアイメイトを迎えるわけではない。もちろん、もともと犬が大好きな人も少なくないが、視覚障害者の「目」としての役割があくまでアイメイトの本分である。千代さんは、もともと犬が大の苦手だった。幼少の頃に近所の犬に噛まれ、それがトラウマになったのだ。

「昭和23(1948)年に、旧清水市の興津で生まれました。7歳までは少し見えていたのですが、視覚の記憶は全然ありません。あ、でも、(縁日などで売っている)水が入ったヨーヨーがありますよね。その、黄色に青い線が入った模様はよく覚えています。子供の頃それで遊んでいたのでしょうね。でも、黄色とか青がどんな色なのかは分かりません」

生家には、2、3歳の頃まで犬がいた。でも、触ったことはなかった。「もう少し大きくなってからのことだと思いますが、飴玉を持って歩いていたら、近所の犬に下からいきなりバクっと(飴玉を持っていた手を)噛まれたんです。別に犬にあげようとしていたのではなくて、ただ持っていただけなのに噛まれた。それから犬が怖くなっちゃった」。

昭和60(1985)年に初めてアイメイトの歩行指導を受けた。その時もまだ、犬が怖かった。歩行指導期間中は協会に泊まり込んでパートナーになる犬と寝食を共にするが、居室では「ベッドに潜り込んだり歌を歌ったりして気を紛らわせていた」と笑う。

「当時は2人の相部屋だったのですが、もう1人が訓練に出ちゃうと犬と2人きりじゃないですか。そうなるともう怖くて。歩行指導員は、常に犬に触ってないとだめだと言うんですけど、とてもじゃないけど無理でした。犬の(自分の手などを)舐めている音なんて全然聞いたことが無かったから、何をやっているのかな?って。そういう未知の部分も怖かったんですよね」

 

子育てのために

 

 

それでもアイメイトと歩きたかったのは、それまでの白杖歩行で子育てを続けるのに限界を感じ始めていたからだった。当時は30代後半で、2人の子供は3歳と1歳。自宅から徒歩で保育園への送り迎えをしていた。

「白杖の場合は、自分の体調によってすごく感覚が良い時と悪い時とがあって、その時々で歩きやすさ歩きにくさが違うんですよね。それに、保育園はお昼寝用の布団などの荷物も多い。白杖を手に、子どもたちの手を引いて荷物も持つのはとても大変。タクシーを使えるほどの距離でもなかったし・・・」

また、当時は今のように点字ブロックが普及しておらず、単純な曲がり角ですらも分かりにくい状況。複雑な五差路など、白杖だけではとても歩行できない場所も多かった。

アイメイトのことは以前から知っていた。盲学校の同級生に、静岡県の女性使用者第1号の人がいたからだ。「自分は犬が嫌いだから彼女が来ると怖かった(笑)。当時は自分が持つなんて想像もつかなかったけれど、やはり子育てが始まってから考えが変わりました」。そんな目的意識がしっかりあったから、歩行指導をみっちり受けてパートナーとの信頼関係を築くと、恐怖心はすっかり消えた。

 

 アマチュア無線で伴侶に出会う

 

 

ご主人の和年(かずとし)さんとの出会いのきっかけは、アマチュア無線だった。千代さんは盲学校の専攻科1年の時に無線の免許を取り、学校のクラブに所属していた。

「私は理論の方はからきしですけど、しゃべるのは大好き。目の見えないハム(HAM=アマチュア無線家のこと)は少ないのですが、とても一生懸命やっていたんですよ。我が静岡盲学校のコールサインはYBH、Young Blind Hamと言うんですけど、女子部員同士ではYoung Beautiful Hamって勝手に言っていました(笑)」。若い女性のハムは希少価値があり、千代さんたちは電波が繋ぐ世界で大変にもてたそうだ。

アマチュア無線は卒業後も続けた。「社会人の趣味の世界は、見えるとか見えないとかはあまり関係ないんですよね」。無線仲間で集まって、横浜の山下公園へ朝日を見に行くといった、今で言うオフ会のようなこともしていた。そうした仲間の1人が、当時東京の大学に通っていた同郷の和年さんだった。

「私は、目が悪い女性と付き合うと不便なことばかりだと、ありとあらゆる悪いことを言いましたよ。デートしたってトイレにも1人で行けない。ご飯の食べ方も下手くそだよ、お料理もできないんだよと・・・」

それでも、和年さんは結婚を申し込んだ。「私は女性と気軽に親しくできるタイプではなかったのですが、女房だけは全然違っていました。無線を通じて、そして、面と向かってもプライベートな話ができる初めての女性でした。私の性格と持っている力を一番引き出してくれる人なんじゃないかって、思いましてね」。それを思えば、見えないことは大きな障害ではなかった。

 

「お母さんが目が悪いからいじめられる?」「ううん、全然!」

 

 

千代さんは子供の頃から、自分でできることは自分でするよう育てられてきた。今も家族が見えないことを理由に特別扱いすることはない。ご主人だけでなく、子供たちもそれは同じだ。

「子供の友達のお母さんたちから、『目の悪いお母さんだといじめられるから気をつけた方がいいよ』ってよく言われたんです。だから私、子供に直接聞いたんです。『あなたはお母さんが目が悪いからいじめられてるの?』って。そうしたら『ううん、全然!』だって。子供たちは平気で家に友達を連れてくるし、その子たちは今でも道で会えばあいさつしてくれます」

親の方がおずおずしていたらだめだと、千代さんは言う。

他の目の悪いお母さんたちと話していると、外出も子供たちに『連れて行ってもらう』という感覚が強いんですよね。私の場合は、自分が子供たちを連れて行ってやるという感覚(笑)。そういうふうに良い方に回るのは、アイメイトがいて、自由に外出できるからだと思います。

 

ブラインドメイクで心も晴れやかに

 

 

そんな子供たちも独立し、3人の孫もできた。自分の時間ができてからは、卓球(ブラインドテーブルテニス)、歌、編み物と多彩な趣味を楽しんでいる。卓球は国体出場経験もある腕前で、今も仲間たちと汗を流す。歌の方では、YouTubeに歌声をアップして、世界中の人たちに披露している。携帯電話・スマートフォンを使って聾者と会話する方法も見つけた。70代になっても尚、最新テクノロジーを積極的に活用する柔軟性はおおいに見習いたいものだ。

 

 

その中でも、3年前に始めた新しいチャレンジが、ブラインドメイクだ。道具と共に指も積極的に使い、手の感覚を頼りにお化粧する。それまでは、あまりメイクには気を使わなかったが、より美しくなることで心も明るくなったという。

「私は眼を使わないので、以前は孫に『おばあちゃん眼を開けて』とよく言われました。それが、マスカラをつけるようになってからは生き生きとした印象になったのでしょうね。今は孫も何も言いません。ただ、せっかくお化粧しても、そして、どんな服を着ようが、主人は何も言ってくれない。自分では見えないんだから、少しは褒めてほしいんですけどね(笑)」

 

もっと視覚障害者を対等に認めて欲しい

 

 

今のアイメイトは7頭目。歴代のアイメイトたちとは、富士登山などさまざまなことにチャレンジしてきた。そんなベテラン使用者として、周囲の人の親切心はありがたい一方で、最近は過剰なおせっかいが多いと指摘する。

「たとえば、私は駅などの階段の手すりを、アイメイトに『階段、手すり』という指示で探してもらっていたのですが、それを口に出すと周りの人が『あ、手すりここですよ!』と先に教えてしまうんです」。それでは、アイメイトがせっかく覚えてくれた指示を役立てられない。そこで、千代さんは、イタリア語に堪能なアイメイト使用者に教えてもらった「マーノ(手)」という言葉で手すりを探してもらうことにした。以後、アイメイトに指示した仕事を、周囲から遮られることはなくなったという。

「他のベテランの使用者もよく言うのですが、本当に困って『困ったなー』という顔をしている時には誰も声をかけてくれないのに、待ち合わせで普通に立っているような時に『何かお手伝いしましょうか?』と言われる(笑)」

アイメイト協会に行くと、そうしたチグハグな対応とは無縁なのでホッとするという。

何でもやらせてくれる。いつ協会に行っても『ああ、素晴らしいな』と思います。だから私、それをいろんな所で自慢しています。アイメイト協会の指導員ほど素晴らしい人たちはいないって。ヘルパーさんも、なかなかあそこまで自分でやらせてくれません。世間全体でも、昔の方が私たち(視覚障害者)を認めていた部分はあると思います。

 

文・写真/内村コースケ(2018年7月取材)

2019年5月7日公開