「支える者」と「支えられる者」の垣根を超えて

今回紹介する静岡市在住の久保田道子さんは、もともと社会貢献に対して強い責任感を持っている女性だ。常に地域などでリーダーシップを執り、助けを必要とする人たちの力になりたいと考えてきた。それは視力を失ってからも変わらない。アイメイト・盲導犬の使用希望者のための相談窓口となるNPO法人の設立に中心的に携わるなど、障害者支援活動の輪を広げている。

「どんなことがあっても生きられる世の中だったらいいよね?」

久保田さんが事務局長を務める「NPO法人 静岡県補助犬支援センター」では、アイメイト・盲導犬だけでなく、聴導犬、介助犬を含む補助犬の使用者全般の社会参加の拡大をおもな目標に掲げている。補助犬の使用希望者の相談を受けたり、関連のセミナーを開催しているほか、視覚障害者ガイドヘルパー(同行援護者)の養成講座を開くなど、活動の幅は補助犬関連だけにとどまらない。

「もともと、『静岡アイメイトの会』という使用者の会の活動の一部として『盲導犬インフォメーションデスク』という相談窓口がありました。2002年に身体障害者補助犬法が施行されると、相談が増えたんですね。盲導犬だけではなく、介助犬や聴導犬についての相談も多くありました。そこで他の補助犬についても対応するために『静岡県補助犬支援センター』(静岡県委託事業)を立ち上げたのです」

2007年の設立当初は視覚障害者からの相談が大半を占めたが、今は聴覚障害など他の身体障害に関係する相談だけでなく、精神障害や知的障害に関する相談も多く寄せられているという。これらの対応をより強化するため、相談支援専門の「みんなのセンター」(静岡市指定事務所)も新たに設立した。

「自分が障害者であっても、子供が障害者であっても、生きられる世の中であったら・・・、どんなことがあっても生きられる世の中だったらいいよね?そう思うんです。私も、そういうふうに思えるようになった出会いをいただいたから、今日があるんです」

相談者の中には、差し迫った困難や悩みを抱え、人生を投げ出したいと訴える人もいるという。

「私はとにかく命が大事だと思っていますので、『死ぬのはいつでもできるから、私に黙って死なないで』という姿勢でお話させていただいています」

 

旧家に生まれて

そんな、命への絶対的な共感のルーツはどこにあるのだろう。久保田さんは、30歳を過ぎた頃に視覚に障害を負った。一人息子を出産した後、約10年間で徐々に視力が落ち、全盲になった。ベーチェット病という網膜に炎症を起こす病気。原因は不明だ。

実家は豊臣家の系譜を受け継ぐ名古屋の旧家。「私と妹の代で18代目です。江戸時代からあるお墓がありました。家系を大事にしなければいけない家でした。神社との関係もあって、古いしきたりが色々とありました。まあ、私も若い頃はそういう“家”に影響を受けてきたわけです」

名家・旧家というものは、古今東西、社会貢献や弱者救済に対する責任感を強く持っているものだ。「家を大事にする」ということには、そうした誇りを保ち、社会に対する責任を負う覚悟を持つことも含まれていたのだろう。「母が不動産業などをして一家を取り仕切っていました。私はそういう母の背中を見て育ったのですが、『株は絶対にやってはだめ、仕事もするな』と言い聞かされてきました。でも、何かこう、社会に関わりたくなってしまうんですよね。自分でも不思議なのですが・・・」

「そういう家でもありましたし、女は短大に行って見合いをして結婚しろという時代でもありました。でも、私、勉強はできたの。それで、高校の先生も勧めてくれて、地元の私学の英文科に進みました」大学時代には、塾講師のアルバイトで貯めたお金で車の運転免許も取得した。

「そういうことに親は大反対するでしょう?でも、私はやっぱり社会参加したいと思ったんです」大学卒業時には、周りの女子学生の半分は結婚、半分は就職という状況だったという。「就職組も、みんな親のコネで就職するの。だけど、私は親が大反対するので、(コネのない会社を)いろいろ受けに行きました。ほとんど受かりましたけど・・・。“安全”な総務とか、秘書的な仕事ならば『お嫁入りの勉強になるだろう』となんとか納得してもらえたので、その条件にかないそうな大手鉄鋼メーカー系列の商社に就職しました」

ガイドヘルパー制度の改善に動く

そうして家を出てしばらく勤めた後、学生時代に知り合ったご主人と結婚。ご主人の仕事先の静岡に移った。道子さんの勤め先には当時静岡支店への女子転勤制度がなかったこともあり、退職して主婦になった。

「それでもやっぱりね、虫が騒ぐわけです。何らかの形で社会と関わっていたいと思って、家で塾の添削をしたり、ピアノを教えたりしていました。ピアノは子供の頃からやっていたのですが、それだけでは物足らなくなってエレクトーンの先生の資格も取って音楽教室を開きました」

やがて妊娠。ますます人生が充実していこうという中、出産後に体調が悪化し、視力が落ちていった。教室と子育ての両立は難しくなり、生徒たちを他の先生に任せて子育てに専念した。

息子さんが幼稚園に入る頃には、外出にガイドヘルパーの助けが必要になるほど視力が落ちてしまった。「市役所にヘルパーさんの利用を申し込んだのですが、静岡市では公的機関に行く時にしか使えないと言われました。同じ静岡県内の他の市では、美容院や買い物でも使えると聞いていたので、この県内格差はおかしいと思いました」その格差是正を陳情に行くと、「他の市の前例を調べて来なさい」と言われた。その通りにしっかり調べて再度申請すると、買い物などでも利用が認められるようになった。

実は、このインタビューの際に、久保田さんとある喫茶店に入ったのだが、最初は「犬はちょっと・・・」とアイメイトの存在を理由に店の入口で待たされてしまった。久保田さんがそれに対し、毅然とした態度でアイメイトや障害者差別解消法などについて説明して誤解を解いたのだが、その凛とした正義感は、若い頃から備わっていた資質なのだろうと思う。

久保田さんが、ガイドヘルパー制度を利用し始めた当初の話を続ける。「それで、いざヘルパーさんと出かけると、『今から久保田さんをバスに乗せます。そちらのバス停で受け取って下さい』みたいに、まるで荷物のように扱われたことにショックを受けました。業務上知り得たプライバシーもジャジャ漏れで、『すごいな、この世界は』と思いました」市役所でどういう研修を行っているのか問い合わせると、絶対に教えられないと言われた。それならばと、何人かの知人にヘルパーになってもらい、研修の実態を把握すると共に、信頼できる人たちと外出できる環境を作ったのだという。

「NPO法人 静岡県補助犬支援センター」理事長の川口綾さん(右)と。もともと犬が苦手だった川口さんだが、久保田さんの強い勧めでアイメイト使用者になった

 

暗闇に差した「アイメイト」という希望の光

「自宅で自然食の料理教室をしていたこともあります。パッチワークや編み物も好き。かと思うと油絵のグループに入ったり。落ち着きがないですよね(笑)。色々なことをやりながらどんどん見えなくなっていくでしょう。大変でしたよ」

背筋をピンと伸ばして生きてきた久保田さんだったが、進行してゆく視覚障害はアクティブな人生に暗い影を落としていった。「当時の私は、本当に『見えなくなったら生きていけない』と思っていて、途方に暮れていたんです。眼科に行けば、先生に『私はこれからどうしていったらいいんですか?』『どこかに(病気を克服する)いい情報はないんですか?』と泣きついていたような状態です」

絶望の闇に光が差したのは、アイメイトの存在を知った時だ。「20数年前、同じくベーチェット病を患っていた知人が、ある時『白杖を使うようになってしまったら、津軽海峡に行って死んでしまいたい』と、話されたのを聞いていました。勝新太郎さんの座頭市の、杖を振り回すようなイメージがなんだか恥ずかしいからと、その人は話しておられました」久保田さんが続ける。「ただね、失明を嘆いて死んでしまったというニュースはあまり聞かないなって思ったんです。その人の話にも続きがあって、『白杖ではなく、アイメイトを持つ』と、後日とても明るく言っていました。その人は宣言通りアイメイト使用者になったんです。私には大変な驚きと共に励みになりました」その後、3人ほどのアイメイト使用者に接する機会もあった。

ちょうどその頃、盲学校へ通うことも考えていたので、1人で通学するためにも自分でもアイメイトを持ちたいという思いを強くし、1998年7月にアイメイト協会で歩行指導を受けた。卒業して歩行の自由を得た久保田さんは、また以前のように前向きに、アクティブに生きられるようになった。うれしくてうれしくて、周りの仲間たちに「とにかく自由に歩けるよ」「一人で行きたい所に行けるんだよ」「アイメイトっていいよ、すごいよ」と声をかけまくった。

「すごく頑張って営業しました(笑)」その影響でアイメイト使用者になった一人が、この『60周年記念ライブラリ 使用者インタビュー』にも登場していただいている、現在「静岡県補助犬支援センター」の理事長を務める川口綾さんだ。

当事者の視点で支援を

アイメイトを得た久保田さんは、冒頭で紹介したように「NPO法人 静岡県補助犬支援センター」の設立メンバーとなった。現在は静岡市中心部にある事務所に通い、かつての自分と同じように悩む人たちの自立支援に尽力する毎日を送っている。

 「こういう支援事業をしていると、障害者の自己選択、自己決定といったものを、どこまで自己責任のもとに尊重することが対等なのか、すごく悩むことがあります」

久保田さんがアイメイトを持った直接のきっかけは、盲学校に通うために必要だったからだ。「通勤、通学にはガイドヘルパーは使えません。平日の日中仕事に出ている夫に送り迎えしてもらうのも無理でしたし、自分で行くしかないわけです。こうしたハードルがたくさんあるから、視覚障害者の社会参加率はいまだにすごく低いのだと思います。学びたい、働きたいと思っても、まずは自分で歩ける人、自分で通勤出来る人、自分で行動出来る人という前提条件がつく。しかも今はパソコンが出来る人という条件もつきますよね。かなりハードルは高いと思います」

だからこそ、自分たちが手を差し伸べられることは、できるだけやっていきたい。同じ障害を持つ自分だからこそ、できることがあるとも思っている。「今私たちは、具体的なニーズを拾い上げ、その人たちに向けた支援プログラムを作って、より実践的な支援を提供しようという方向で努力しています」最大公約数を想定したような公的な制度には、必ずこぼれ落ちるニーズや不備がある。当事者の視点でそこをフォローしたり、改善を訴えることで、より良い「支え合う社会」が作られていく。

 

文・写真/内村コースケ(2017年3月取材)

 

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